only_skin_deepのブログ

飛ぶ前に見ろ、それができたら嬉しいね。

【私小説】顔と骨のない、私を愛してくれた父に

私が、父親の眠る場所を喪失したことを知ったのは

世界一汚い世界で生きていた時だった。

 

 

 

私の生まれた2002年6月13日の約2ヶ月後、父親(以下、ゆうじパパ)が彼の実家で不審死という形で故人となった。

 

 

 

私の記憶は1歳~しか思い出せないため、ゆうじパパのことは顔も声も背丈も覚えていない。数回だけ、公園の切り株で胡坐をかいて缶ビールを持ち、静謐な笑みをカメラに向けたときにシャッターを切られた写真を見たことだけがある。

 

 

(その写真も今は所在が分からなくなってしまったのだが。)

 

 

写真としての記憶の中の彼は、背はあまり高くなく、髪はやや長めで、少年と青年のどちらにも傾かない、その座標にとどまる人はあまりいない奇麗な顔をしていた。

 

 

彼は東京でバーテンダーをしており、写真学校の学生で、当時英語の情報商材を生活苦で売っていた母親にビッグサイトで高額なCDを買わないかと声を掛けられ、二人は出会った。

 

 

(ちなみに、母親の卒業制作の写真はアパートメントから撮った青空だった。卒業前に写真に対しての熱情が滑落した結果、それに「青」とだけ題を冠して提出したそうだ。)

 

 

彼と彼女が、絶対に代替など到底できないほど惹かれあって過ごした最高の数年間を私は何度も頭の中で色を付ける。

 

ゆうじパパは私が生まれるのを心待ちにしていたらしい。娘であることが分かってからは、何歳の時にはどんなふうに髪の毛を編み込んであげるか、まで考えていたらしい。俺よりかっこいい男以外には指一本たりとも触れさせまい、と本気で凄んでいたそうだ。私は今でもずっと、ゆうじパパの思惑に絡めとられてか、彼より「かっこいい」と思った男性も女性もいない。

 

(私の意識がそこに帰着するようになっているのだろう。そこには希望や期待が一方向にのみ流れる世界があり、固定された感情の流出だけがある。これは防衛機制の一種であると推察することもできる。)

 

 

 

 

 

 

 

いつにも増して、最低な年だった。

茨城の施設に私が入寮していた期間にそれは発覚した。

 

 

施設については追って記述する機会を絶対に持ちたい、あまりに文脈が多層であるからだ。

 

私はそこに最年少の19歳で入寮し、平均年齢48歳前後の女性たちと寝食を共にし、約2年後に施設の運営する精神科の二階の女子トイレから脱走するまでそこにいた。

 

 

衣食住の強すぎる圧迫、そして思想、信仰の強制、外出禁止、携帯以外に新聞も禁止される明らかな思想の自由の奪取があり、身体への加害としては首を絞める、顔を殴る、吐いても決められたグラムを食べ終わるまで部屋に帰さない等、精神損害としては、「死ね」というあまりに現代社会で最も低俗な存在否定の暴言、家族との面会を脅迫材料として使用する等、女性施設長自らが入寮者たちの残りの余生すべてを破壊し、すべてをひずませ、筆舌に尽くしがたい「痛み」をずっと味わわせるループ装置のようになっていた。

 

 

 

 

 

 

母親と弟、祖母との面会をようやく許されたのは、入寮してから一年後のことだった。

 

弟に駆け寄って抱き着いた瞬間に涙が大量に流れたのを覚えている。弟も思春期なうえ数百人の目の前なのに、面会時間の終りまで手を繋いでくれたし、彼も泣いていた。

 

私が家で寝たきりになりながら見ていた最後の弟の姿からは20㎝以上背が伸びて声が低くなった状態で再会したので、奪われた時間の重さと、もう大きくなっていく途中の彼には一生出会えないことが無性に悲しかった。再会できたことが嬉しくて泣いたというより、私はひたすら狂おしいほどかなしくて、そして侘しかった。

 

 

 

 

 

 

母親と弟はひっそりと岩手の山奥に眠るゆうじパパのお墓に、私が施設の中で20歳になった時に成人を迎えたことを報告をするために訪れたらしい。

 

父親のお墓の隣には、飼っていた動物を模した犬の置物があるため、ゆうじパパの苗字とお墓の特徴を聞いた弟は、母が追い付くより先に敷地内の墓石を見て回って、ずっと不可解な顔をしていたらしい。

 

 

 

ないよ?どこにも無い。

 

母はそれを当然理解できず、彼女が把握していた墓地のその場所に移動したとき、本当にゆうじパパのお墓はなかった。

 

 

 

 

住職に尋ねたが、何年も前に父方の家の意向で墓仕舞いをして関東に移されたのだという。勿論、なにひとつ母への伝達はなかった。

 

 

 

私は、父親が焼かれて埋められた時と、6歳の時に母親が再婚した三人目の夫と大喧嘩して私を連れて飛び出した時の二回だけ、たった二回だけその場所に行ったことになる。

 

 

 

 

 

私はゆうじパパを喪失した、とは言っていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父親の眠る場所を喪失した、と言っているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

母は私の手、指のかたち、長さ、爪に至るまでを眺めて、「これはゆうじパパの手だね」言うことが適さかある。

私には当然分からないが、ゆうじパパと私は瓜二つな言動をすることがよくあるそうだ。ある日即興でピアノを聴いていると、「ゆうじパパも本当にこんな曲調のジャズを弾いていたよ...」と言われた。

母親が私にとって嬉しい言葉をかけてくれた時に、「全部聴いてたけどもう3回言って」と返すと、母親は吃驚した顔をした。ゆうじパパが公園のブランコで母親にプロポーズした時、母の返事が嬉しくて同じセリフを言ったらしい。

ときどき精神がコントロールできなくなってきて、破滅的な創作をする度に母親はゆうじの血なのかな...と静かに呟く。

私が線路に飛び込んだときも、首を吊ったときも、クスリに溺れたときも、母はゆうじパパと私がそっくり重なってしまうらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父親はずっと遠いところで生命の分水嶺を越えた。あと数年経てば、私の年は彼の年を追い越していくんだろう。