更級日記

すべて二枚の水晶体に映る虚像

24歳になってから初めての日記

ここしばらく受験勉強をしている。現役の時は志望校は絶対に私立文系と決めつけていたから、今になって数学も理科もやり直して国公立に入ろうとしているのが、なんだかおかしい。基本的には昼過ぎから歩いて塾に行って、まだ小学生も来ていない教室の中で自習をしている。夕方を過ぎると中学生や高校生が増えて騒がしくなる。リスニング音声は聞き取れないし、数学もひとつも進まなくなってぼーっとしたりする。ウォーターサーバーで水をくむのも、席を立ってトイレに行くのもいちいちどぎまぎしてしまう。高校生というものを誇らしく思うときも憎む時期も、懐かしいと感じる日々も遠い昔に完全にやり過ごしてしまって、いまでは一人の他者として識別するようになった。福島にいたころは都市に出て大学生活をすることに人生最大の喜びを見ていたけれど、なんかそういう類のむさくるしい青さを思い出すと、とことん制服を着た集団が遠くに見えてくる。

京都にいたころ、周りは大学生だらけだったけど、なんとかなりそうな膜の中にいる彼ら彼女らにどこか苛立ちを感じつつも意外なほど素直に会話することができた(相手が根底に優しさを据えた人たちばかりだったおかげだ)。後半には学費の工面の見通しがつく幸運に恵まれて、過去問を解いてみたり大学受験を考えていると人にこぼしたりした。モラトリアムが欲しいから、という私のなまぬるい志望動機には反対の声も多かったけどやっぱり社会人との間に落としどころが欲しいと思っていまも勉強している。

私のいち個人的な向こう見ずによって17歳から人生をドロップアウトしてしまってからは、何も聞こえないくらい慌ただしく生活を繰り返して、ようやく一息ついて思ったのは私って私が思うよりずっとどうしようもない奴に行き着いたなということだった。ここ数年、いかにかつての自分が病的に生きてきたか実感しては情けなくなったり今からでも謝罪に行きたくなったりしているけど、ふつうにあの頃詰んでいたエンジンは危な過ぎた。だからこそ死なずにすんだのかもしれない。

 

去年東京に再び引っ越してきてからは、ミニストップの厨房で宅配注文を捌ききれず韓国人留学生に泣きついたり、家事代行の仕事で75歳の上司にコテンパンにされたり、JR南武線のホームで帰宅ラッシュに圧し潰され両足を怪我したりと、「一般人」としての労苦を味わった。最寄りのスーパーでセルフレジが使えない高齢男性にめちゃくちゃ因縁をつけられたりもした。不思議なことに、自分が人生をなんでもありのアウトローなゲームだと捉えていたとき身に着けたはずの耐性は、おおきく逆耐性へと転回して返ってきたのだった。そうなったとき、私は激しく戦力外で、おまけに戦力外の自分すらうまく乗りこなせないという有様だった。(そういえば運転免許合宿もまさしく私のプライドをぎったんぎったんにしたものの一つだった)

 

因みに今日は連日のワールドカップ観戦による体調不良で、一日中雨なのも相まって塾に行かなかった。その代わり昼のうちから買い物に行き、いまかなり久々にこれを書いている。私がみっともなく最後の砦として残してきた「私は賢い、頭がいい、勉強ができる」という十年以上前の太古の記憶を否定し続ける毎日ではあるけれど、じゃあリクルートエージェントに頼んで事務の派遣社員登録を行いますか?という問いかけにに頷くことはまだできないので、引き続きやっていこうと思う。ニッポン頑張れ、カーボベルデありがとう、やっぱりメッシはまじで凄い。ネイマールの姿を見せてくれてありがとう神様

 

 

やがて哀しき全能感

大人になったなあとしみじみ思ってしまった時点ですでに失敗を犯している。

色々考えてもやはり恥ずかしいことだよなあと思うが、私はやはり18歳近辺の時代に未だになんの言い訳のしようもない懐かしさを感じている。

実際に当時の私とインターネット上にせよ対面での交流にせよ関りがあった人がこんなセリフを見たら、どこまでも救えない馬鹿だなと感じると思う。そうかもしれない。

私はこの記事がどこにも辿り着かないことを知っても、少しでも当時の知り合いたちに現在の私を売り込み、愚の骨頂としてただ一人君臨していた悪しき時代をいかに苦々しく反省しているかを認めてもらおうと思う。

 

当時のカレンダーアプリ、日記、お金の入出の仕方、写真をみるに、あまりに単純でしかし強力な装置に自らを嵌めてしまったのか分かる。地方に住み、それまで通学していた高校を退学し、母親と祖父母以外に会話を交わすこともなく毎日を惰性の中で過ごしていたティーンエイジャーが、都市で共同生活をする同年代のコミュニティに参入し、また彼ら彼女らと共通の悩み(通院を要する精神的疾患、金銭の不足、メジャーな教育システムからの孤立、家族問題、コミュニティへのコンプレックス、何者かになりたいという熱)でもって結びついたならそれは劇的な環境変化と内面の変化を引き起こしておかしくない。特に私は、ある程度完結した環にあとから参加したという点でより一層の焦りと高揚感とを抱いた。

 

時は今、この目の前で確実に何かが生まれようとしている

当時の私は、基本的にこのような場面に絶えずアクセス可能だった。

良いと思うことも悪いと感じることも、絶対値があまりに大きいものには複数の人間のもつ条件が重なり合っていると私は思う。やはり共鳴し、共振する観測者かつ発信者がいなければ激情は生まれないだろう。どのシェアハウスにも保護者という興覚めな不導体は存在しないし、一度生まれた波は全員を否応なく呑み込んでいく。コミュニティの皆がそれぞれに現実というものから具体的な形でなにかしらの迫害を受け、またそれに対する有用な対応もできない時に、現実という光がまるで差し込まない秘密基地にありつけたのだ。そこでは独自の言語が生まれ、法律が作られた。何がコレクトで何がインコレクトなのかが明白で、それを正しくかぎ分けられている限りホームがあって仲間がいた。あのころ、幸せなことだという文脈において友人1と話すことも友人2と会うことも私の中で区別はなく、代替可能である等しい究極だった。一番仲のいいのは誰かという問いに私は答えを用意できなかった。幼い頃、年越しに親戚が集まり、彼らが紅白歌合戦をバックに楽しそうに会話をするのを聞きながら座敷で眠りに落ちるのが何よりの幸せだったように。

 

まるで堪え性はなく、いつも相手の善性に甘え、傲慢で自信過剰で、だれかの人間性や背景、出自、能力をあたかも自分が最もよく理解できているようにふるまい、自らの社会属性を逆手に取り、向こう見ずな言動の起因をいつも他責に収束させ、誰かの思いやりを自分への心酔と解釈し、現実というものはどこか次元の違う世界の属する人間たちの問題であって、これが欲しいとやっぱりあれも欲しいだけ考えて日々を潰し、外を見れば内側の私たちの優性の証明と思い、全ては取るに足らぬ些末なことと笑っていたのが若さを黒幕に据えた全能感のもたらした私の正体だったと感じる。

 

成果があれば、それがたとえ目に見えなくとも饒舌になる必要はない。私には何もないことが、私にだけは何も残らないことが分かっていたから、言葉という、会話という道具のみを違法改造し、もはや対照できないほどに意固地に差別化した(差別化しただけの)マイノリティを編み出したに過ぎない。それが妙に守られた存在になることも見越したうえで。

もちろん、一瞥しただけでそれがなにであるのかなんてわかる必要はなく、また逆に一瞬で己のすべてという致死量のうるさい情報の投与を相手に行う必要はない。やるべきではない。

自分の凄さを分からせるために、足音を聞いただけで影を見ただけで、ただ一言で釘付けになる強烈な求心力をばらまき続けないとその先の才能は無いも同じだと焦っていた私には世界のすべてがだらしないガラクタに見えていた。

 

 

もうあのシェアハウスは無いんだとか、あの友人と言葉を交わすことはないんだとか、そういうことは六年間の時間薬が事実すら揺らぐほどに慰めを発揮してきた。ただ、あの時も私はそこに居り今も私はここにいるのに、なぜそれらの針の孔を通す糸はいつまでも取り出せないのかという方向を持たない感情は厄介だ。向こう側もこちら側もどちらかが一方の模倣品になってはならなくて、私はもっと正しく解体をして等しい重さに切り分けることが出来るようになりたい。

 

 

それでもやっぱり、もし叶うなら、みんなでまた集まってバカでかい音を聴いて、最近の成果報告が飛び交うなかで、誰かがファミリーパックの寿司を買ってきたのに本人が一貫しか食べられないくらいに遠慮せず食べて、最近弾けるようになった楽器を誰かが鳴らして、音の合間を縫って絵を描きだす仲間を眺めて、みんなが被写体にも撮影者にもなって、シャッター音が気持ち良く音を立てる中、スマブラをやってこてんぱんに負けて寝ている仲間はほっぽりだして11月の夜に歯をガチガチ言わせながら散歩したい。

 

 

唇をかんだ

ただひたすらに奇麗なものを見てみたいだけなんだと思う、とその女の子は言った。それが君をひたすらに苦しめるとしても?と僕は言った。頭の中には高山病になりながらも登頂を続けようとする人間の姿が浮かんでいた。うん、そうだね、こういうのってあんまりよくないんだろうけどね。女の子は恥ずかしそうに顔を赤らめて、口の端に引き攣りのような微笑みを浮かべながら僕の淹れた紅茶を飲んだ。

 

あの、入院してきたばかりの時のあなたは凍えながらピイピイ一生懸命鳴いている小鳥みたいだった。拘束したときも細い腕を縛りながらごめんなさい、と心の中で何度も何度も繰り返していたのよ。病棟の外にあるベンチにまず僕を座らせてから、自分もその隣に腰を下ろすと坪田看護師はそう話した。11月の頭にべっとりと酒に塗れたぶかぶかの下着一枚で、おまけに裸足で倒れていた自分を思い出して僕は少し恥ずかしくなった。

 

空を見上げた時に、僕は嫌でも打ち震えるほど心の底から感動せざるを得なかった。赤坂のホテルの入り口で、僕は顔を真上に突き上げてしばらくそのまま動くことが出来なかった。自分は無人の惑星探査機の先端部分で、ひっきりなしに迫ってくるちいさな塵や星の残骸をかき分けながらどこまでも続く暗闇のなかを突き進んでいるようにしか思えなかった。

 

俺にとって一番大事なのは神秘性なんだ、と彼は僕に言った。それがなければ、この世界はすべてゴミ屑でしかないんだ。なんでもいい、お前の頭を日々いろんな物事や考えが通り抜けていくだろう?言ってしまえば、全てのことは神秘という接着剤が自分をなにか大きなものに張り付けてくれるだろうと一方的に望むだけのがらくただ。神秘性のないところには存在は存在を続けられない。三秒後には余すことなく倦み抜いてパアさ。終わりなんだ。俺には自分のなかを蒸発して返らなくなっていく大切なものをどうすることもできず眺めていることしかできない。こんなことってあるか?お前にはこの病がどれほど致命的なのか分かるか?こんなに為すすべのない毒に侵されたのは初めてだ。俺にはわかるんだよ、もう以前の俺は永久に失われてしまった。俺は俺という存在を繋ぎ留められないままばらばらになって、、、、そしてやがて俺は俺自身を一滴残らず追放する。

 

 

アイタイ

妄想の矢の飛ばなさに愕然とする。六月の蜘蛛の巣のようにやわらかく鉄のように硬い天然の糸を自分の手足すらも及ばないほど自在に扱えた時は消えた。あくまで切れ端を探しに行く。探しているうちはもちろん手に入らない。脳がピアノ線で引き攣られるような渦は頸動脈を通って背中全体にいまはない灰色の毛を植え付ける。それはやがて右の腕に降り、わたしはそこでようやく泣くことが出来る。すべての音に既視感がある。母親をおもう。夜中じゅう光るテレビの青をきく。三回ほど呼吸すれば耳は癒着してひとつの完全になる。19日間だった。だいたい私の人生は19日間を目途に循環する。今まで見た夢を全部暗誦してみる。花の咲くにおいがした。すべての泥人形を湯の中へまるで牧羊犬のように導いていく。そこにははにかみがあり、わたしはそれをコンセントから抜いてみる。赤い粉が雷のはしるコスモス畑から破れた花弁だけを浚い、それはなるべくはやく弧にならなければいけない約束事を見ないふりをする。向こうからやってきた小指は私からわたしを刳りぬいてくれた。こちらからむこう、むこうからこちらを見ると、どうしてだかいつも左側には色のない蛇腹が横たわっていた。もう、全ては言葉に聞こえていただけの音だとわかってしまった。

連絡先

昨年度の冬にInstagramのアカウントを削除したため、私のブログを読んでくれている殆どの人々とのやり取りはできなくなった(特に京大のキャンパスに赴くときに声をかけてくださる方が多かった)。

 

 

今は東京に住んでいますが、11月祭の期間中に京都へ行くため、もしまた構内で会えることがあればまた話が出来たらと思います。

寒くなってきたので体に気を付けてください。

 

 

メールアドレス:dakeonnsenn@gmail.com

3+1 AAA

二月十八日更新

 

 僕たちは必ず間違えつづけていく。その繰り返しの果てにいったい何があるのかは分からない。どれほど念を入れてありとあらゆる「正しい向き」を頭に叩きこもうとしても、次の瞬間に僕たちの体は百八十度旋回して手を伸ばそうとした瓶の向かいの缶の蓋を開けてしまう。いつだってそうだ。

 

 僕には決して耐えることができないものが三つ存在する。僕の人生は言ってしまえば退屈と孤独と空腹から如何に効率よく、そして完全に逃げ切るかという運動の終始でしかなかった、と最近は思う。三つに切り分けたそれぞれの苦しみの色や形や手触りを、いろいろな人たちが僕に教えてはやがて去っていった。それらは決して自ら進んで教えたくなるような代物ではなかったのだろう。そして、その忠告を与える対象は、選り好みなんてしている状況ではなかっただろうが、きっと必要不可欠な存在だったのだろう。

 

 そうして僕はいくつかの人生訓を抱えながら17歳になった。

 

「知らなかった、あなたってピアノが弾けたの?」

「ええ。実は昔からずっとピアノを習っていたのよ、家のすぐそばの小さい教室で」

 坂本スミレは遠慮がちな調子でクラスメイトからの質問に答えると、楽譜を持ち上げてもう一度折り目正しく紙を癖づけた。その会話が実際にあったのは確か学校で行われる合唱コンクールの準備期間のときだったと思う。僕はほかの男子生徒たちと一緒にピアノやその周りに群がっている女の子を眺めていた。僕たちの学校はとりわけ音楽に力を入れていて(そのほかは一般的な公立の平凡な学校でしかなかった)、合唱部や管弦楽部に関与している生徒や教師たちはちょっとした身分だった。坂本スミレはそのどちらにも所属しておらず、学校生活とは関係のないところでコツコツとピアノを弾き続けてきたようだった。

「私たちのクラスは坂本さんしかピアノが弾けないみたいだから、伴奏者を選ぶためのテストもないし......ともかく、一人きりなんだから穴をあけるようなことはしないでね」一人の合唱部の女の子が言った。

 僕はバス・パートのしるしをつけた手元の譜面と、坂本スミレの着ている皴ひとつないジャージを交互に見つめた。

 

 形だけの文化部に所属している僕は、おそらくは学年の誰よりも早く下校している。僕の前を歩く学生鞄を背負った人間にはまだお目にかかったことが無かった。最初のうちはなんだか後ろめたい気分だったが、そのうち当然のように運動部の生徒が練習するすぐ傍を通って家に帰ることができるようになった。ときどきはテニスボールやら蛍光色のビブスやら乱暴に置かれただれかの水筒なんかに躓きそうになった。

 入学して驚いたことの一つに、学校の周りを取り巻く騒音というものがあった。すぐ目の前を、むかし軍用道路だったという大通りが駅まで走っていて、試験中だろうが抜き差しならない説教の最中だろうが、救急車はヒステリックにサイレンを鳴らし、通行人は大声ではしゃぎ、車たちはウインカーがわりにクラクションを殴り続けた。

 

 当たり前の話だが、二年生も終わりに近づいていた僕は家と学校の間にある道すべてにすっかり飽きてしまっていた。目を瞑ったって歩ける。道を変えても同じことだった。

 

 僕には仲の良い親友と呼べる人間は殆どいなかった。隣の隣のクラスの黄出という男だけが僕が友人と呼ぶことのできる貴重な存在だった。なぜ、僕たちは友達になったのだろう?授業のクラスも委員会も、出身学校も僕たちはどれも違っていた。けれど、最初に二人で遊んだ記念すべき日付を僕はしっかり覚えている。それは花見の季節だった。僕たちはそのとき、地元では一番大きな神社の周りを散歩していた。一年生の終りがけの、もう一年くらい前のことだ。

 

「俺は自分の名前が大嫌いなんだ。こんな名前、どうやっても受け入れることはできないだろうね。どこに行こうが自分に付き纏うものを許せないことほどやるせないものはないな。親のことは好きだが、この言葉を名付けたことだけは正直言って恨み続けてるよ」黄出がいつも言っていたことだ。

「由来は?」と僕が尋ねたことがある。

「親が好きな画家の作品の題名だよ」黄出はそう言った。

「そうか。でも、悪気はないんだろう?」

「悪気があったら潔く殺しているだろうな」

 僕には黄出の下の名前がそんなにおかしいとは思えなかったが、黄出の言い分には確かに一理あった。

 

 僕たちは、花見の日から頻繁に会って話すようになった。僕はそのことを嬉しく思った。世の中にはいくら時間をかけても仲良くなれない奴もいれば、顔を合わせた瞬間から仲良くやっていける奴も存在する。ある日、下校中に雹が急にたくさん落ちてきたことがあった。その日はなにか都合があって全員が同じ時間に帰路についていたので、僕のすぐ後ろにも真新しい制服を着た生徒が歩いていた。僕たちは降り出し始めはそれぞれフードをすっぽり被ったり傘をさしたりしてやり過ごそうとしたものの、もうこれ以上は酷くなれないという暴力的な領域に差し掛かると、どちらともなく歩を進め他人の家の軒先で身を寄せ合った。

「君も一年生?」とまず僕が尋ねた。

「そうだよ。あとほんの五十メートルもすれば家があるんだけどさ。」その子は悔しそうに道の奥に見える黄色の壁を眺めながらそう言った。

 僕たちは家の方向が途中まで同じということもあり、また今度一緒に帰ろうと口約束を交わして別れた。

 それから彼の背中を見つけることができたのは全校集会で集められた体育館の中でだけだった。

 

 僕には当時、自分の将来など当然見えていなかったけれど、間違いなく心温まるものが僕を迎えに来てくれるという確信があった。いま自分の周りにある現状はきれいさっぱり僕自身の努力で消え去り、あとはまっとうな一人暮らしを楽しんだり、大学に進んで素敵な恋人と出会ったり、スーツを着て胸を張って仕事をして暮らしていくことはなにも夢物語ではないと思っていた。良い時代だったのだと思う。あの頃は自分で拵えた幸福な暗示にすぐ体を馴染ませることが出来た。あるいは、そうでもしなければ生き残れないような時代だったのかもしれない。

 

 僕は図書館に行くときにはだいたい半日は迷い続け、それからやっと重い腰を上げて自転車に跨った。母親はよくその図書館の悪口を言っていた。僕もそれについては同感だった。設計当初は腐るほど金があったのだろう、実際に機能している空間よりもずっと、壁や天井や階段はぶ厚く、硬く、そして大きかった。入り口にはウイルスのような形に固めたコンクリートの作品が設置されていて、その大きさのおかげで光の殆どは館内に入り込む前にその影のなかにすべて吸い込まれていた。図書館の中はいつも黴の匂いがして、夏の昼間でも蛍光灯が真上に無ければ字が読めなかった。蔵書はどれも致命的に古びていて、ページを繰った拍子に留め糸が千切れて床に落ちることもあった。もちろん掃除は行き届かず、いつも埃たちがぼたん雪のように舞っていた。

 

 そんなわけで、学校の図書館を使わずにわざわざこんな場所で本を借りようとしている坂本スミレの姿を目にして僕はかなり驚いた。それでも、貸出カウンターの列の前のほうに見える後ろ姿は間違いなく彼女のものだった。

 きわめて邪魔な石の塊が無い裏口に回って駐輪場に出ると、そこには坂本スミレが立っていた。僕たちの学区はここから歩くのには少し遠すぎるのだ。

「やあ」と僕は挨拶した。

「こんにちは」と彼女が言った。

 

 

 黄出とスミレが付き合い始めたのは、やっぱり僕にとってかなりの驚きを伴う出来事だった。僕たちはよく三人で黄出の広い家に集まって遊んだ。彼らは随分うちとけていて、おそらく誰の目からも落ち着いた素敵な恋人同士に見えたことだと思う。僕たちは特に約束をするわけでもなく毎日のように一緒に放課後を過ごした。三人でボードゲームをしたり唄を歌ったり、宿題を片っ端から片づけたりした。

 

 

 黄出はおそろしいほど絵のうまい男だった。黄出は僕の所属する部活の次に休みが多い美術部の次期部長候補だった。ある空間に黄出の絵が飾られてしまうと、それが廊下であれコンクールの展示場であれ、周りの作品たちはみんななんのために絵として生まれてきたのか混乱しているみたいに見えた。二度ばかり、僕と黄出は表彰式で隣に並ぶことがあった。黄出はその時々で歯の健康の啓発だったり、自画像や郊外のダムの有用性や近くの大学のマスコットキャラクターの絵に至るまで色んなコンクールに応募しては大きな賞状と引き換えていた。僕の方は、学校の名誉のために生まれ落ちた主任の女教師に要求されてたまに作文を書き、彼女が素晴らしい校正を果たしたときにだけ表彰を受けた。壇上で僕が緊張していると、黄出はいつも僕の詰襟を直して軽く背中を叩いてくれた。

 黄出の部屋には今までもらった賞状が机の上に積み重ねられて置かれていた。分厚い紙もあれば、光沢のある紙もあった。

「どこかに仕舞ったり額に入れたりはしないんだね?」

 僕がそう言いながら一枚一枚紙をめくっていると、黄出はよければ好きなものをひとつ持っていってくれ、と僕に言った。このままでは陽に晒されて変色していくだけだと思い、僕は一番上の紙を取った。今にも泳ぎ出しそうな達筆な字で黄出の名前が記されていた。

 

 僕は昔からよく異常な夢を見た。たとえば、熱を出す時には毎度枕元に誰かしらが現れて耳元でなにかしゃべりかけてきた。とても背の小さな少女が僕の布団の周りをはしゃぎながら駆けまわったり、冷たい感じのする女が大男と協力してシーツを引き摺って、僕のことを床に落とそうとしたこともあった。そのほかでは、夢の中で食べるものにはちゃんと相応の味がしたし、誰かに傷つけられると相当の痛みを伴って鮮やかな色で出血さえした。雪山で遭難したときには寒さで指が引き千切られるように痛み、起きてからもしばらくそれは続いた。

 

 その日、僕の体は意識が目醒めたあとも全く動かなかった。ぴくりとも動かない。動かせるのは目の周りだけだった。必死になって瞼に意味不明な図形や線がはっきり映るくらい目を開けたり閉じたりしていると、段々と呼吸が荒くなっていった。そのうち僕の意識はひとりでにぼんやりと浮かぶ図形の示すものを読み解こうとし始めた。突然、僕はその奇妙な模様が蛇の顔であることに思い当たった。その瞬間、喉の奥の方が力いっぱい絞めつけられたみたいに急に狭くなった。こめかみと腹のあたりには次から次に大粒の汗が噴き出した。僕は鼻腔が閉じてしまうほどに大きく息を吸いこむと、間髪入れずに瞼を思い切り開いた。そのとき僕の瞳は天井にまでびっしりと敷き詰められた蛇の斑模様とその目を捉えた。僕の耳は飛行機のジェットエンジンのように爆音で音を立てる鼓動をずっと聞いていた。

 やっと体が自由を取り戻したとき、時刻は午前八時三十分を少し過ぎていた。平日であれば遅刻は免れなかっただろう。僕は椅子の背にかけてあったバスタオルをひったくって、シャワーを浴びに風呂へ行った。三十分くらいかけて、ぬるぬるする汗を洗い流した僕は、部屋に戻ると床に落ちていた黄出の賞状を拾いプラスティックの画鋲で壁に留めなおした。

 

 

 僕たちのクラスは八クラス中、四位の成績で合唱コンクールを終えた。

 

 春になると、僕と黄出とスミレは三人で神社に花見に行った。その頃になるとスミレは僕側から隠れるように黄出の背後に回ることはやめて、だいたいは僕の右、黄出の左を歩いた。それでも、道が狭くなるようなことがあれば二人は何も言わずに後ろへ下がり、僕が一人で先頭を歩いた。春の街はなんとなく全体的に薄い黄色をしているように見える。そして空気は乾燥し、手を出して指を擦りあわせると、その溝に目に見えないほど細かく挽かれた粉が溜まっていくような気分がする。じっと左手を見つめ続けるうちになんだか去年とは何もかもが変わっていってしまったような錯覚に陥った。僕は今すぐ雪が降り出すことを期待して西の方を眺めてみたが、残念ながら雪雲はもうとっくにどこかへ行ってしまったみたいだった。

 

 三年生になり、教室の場所が変わり、靴箱の位置が去年よりも使いづらくなった。僕は三年の春からは本腰を入れて勉強することにしていたため、黄出の家に行くのは金曜日の放課後だけにした。当時の僕はまさしく勉強こそが生きがいであるという暮らしぶりだった。学校では教室の一番前の席で熱心に話を聞き、質問があればその日のうちに職員室まで詰めかけて解決した。休み時間になるとノートを開いてぶつぶつ独り言を言いながら復習をした。学校が終わると家族の危篤を知らされたかのように大急ぎで支度をし、帰り道では参考書を片手に歩き、赤信号で立ち止まると簡単な問題に取り組んだ。なぜそんなにも集中できたのだろう?僕はあの頃いったい何を考えていたのだろう。当然、僕の成績は受験を前にしてどんどん揺るがぬものになっていった。教師たちは皆、僕が県で一番の進学校へ行くものだと思っていたし、僕もそれになんの疑問も感じなかった。今の僕はあの頃の日々をほんの少しだけ思い出すことが出来る。日当たりの悪い団地の外廊下に面した部屋で、毎朝午前四時に起床し、ラジオをつけて肩から毛布を被り、ぼんやりとした灰色の光の中でペンを握りつづけた。机の隅のほうに一斤の食パンを置き、腹が減ったり集中力が落ちてくると碌に目もくれずにちぎり取って口にいれた。夕方、学校から帰宅しても部屋は早朝と何も変わらず灰色だったのをおぼえている。他の住人が廊下を歩く音や烏の鳴く声のほかに変化と呼ぶべきものは何もない日々だった。

 

 その頃生活していた家のことを時々懐かしく思う。僕と母と妹が住んでいたのは三階の部屋で、その集合住宅は道路に対して平行に棟が伸びていた。ベランダからはちょうど向かいの家の屋根から上の部分だけが見えた。幾重にも交差する黒黒とした電線の隙間に、遠くの住宅街やショッピングモール、高校の野球のグラウンドがのぞいていた。そこには、実際の人影はなくとも間違いなくだれかの生活のあたたかみが宿っていた。冬になると、家の屋根たちは五センチくらいのささやかな降雪を受け止め、僕が少し腰を屈めると景色のすべてが境目のない真っ白な湖のように地続きになって見えた。ベランダから道を見下ろすと人々の頭頂部や自動車のボンネットが見えた。それほど距離はないのに、誰も僕の存在に気づく人はいなかった。僕が好きだったのは、斜向かいのアパートの一階部分にある英語教室を出たり入ったりする子どもたちを眺めることだった。それを見ている間、僕はいつもほんの少しだけ幸せな気分になった。

 

 受験を前にして、僕たちはまた三人で集まって勉強をし始めた。示し合わせたわけではないけれど(少なくとも僕は二人と志望校について話し合ったりはしなかった)、僕たちはどうやら高校でも顔を合わせることになりそうだった。スミレは一年生の時から熱心に塾に通い几帳面に課題をこなしていたし、黄出はまた然るべき努力の下敷きを経てまっすぐに泳ぐことを得意としていたから当然なのかもしれなかった。

 

 その年で一番の冷え込みになり、降雪もまた一年で最も激しくなる頃、僕たちはそれぞれ受験票を持って教室に入り、結果としてその高校の中で今後3年間身を置くことを許された。合格発表はスミレの母親の運転する車に全員で乗り合わせて見に行った。その事で僕たちは随分と色んな人に心配されたり、水を差されることになった。仲違いをしたくてそうしているという風にしか周りには映っていないようだった。所々が欠けたベニヤ板に貼り付けられた白い紙に番号を確認した後、僕たちは点数を聞きに行きそれを報告し合った。スミレが一番得点が高く、次いで僕、その二点か三点下が黄出の点数だった。

 

 

 

 僕にはいつからか自分は必ずどこかで大規模な家出を遂行するだろうという予感があった。

 

 

 

 僕とスミレはまたしても同じクラスで、黄出は隣の校舎のクラスだった。中学では僕は殆どいつもくじ引きを辞退して、誰もなりたがらない最前列の席に座り続けたので、授業中にスミレの後ろ姿を見るのは恐らく初めてだった。

 スミレは耳と耳を繋いだくらいの高さに髪をひとつにまとめ、コーヒーブラウンのブレザーに背骨がぼこぼこと浮かび上がるくらい机に齧りつき、まちがいなく教室の誰よりも熱心に授業を受けていた。日によってその背中は紺のセーターだったり、薄い黄色のシャツに変わった。スミレが勉強へ熱意を傾ければ傾けるほど、僕の内側で急速に何かの熱源が冷えていくような気がした。じっさい、僕は入学してから以前のように勉強することが叶わなくなっていた。相変わらず自分で吹き込んだ問題文をイヤホンで聴きながら登下校を繰り返したものの、僕にはもう自分の声の掠れ具合や唇同士がかさついて立てる耳障りな音しか聞こえなかった。僕は時々何もかもが嫌になり、休み時間になると自転車に乗って勝手に学校を出て行ったりした。遅刻をすることも増えた。食欲が無い割に、食事を摂らないと直ぐに具合が悪くなる僕は、講義に合流する前に廊下の自販機で軽食を買い、それを口に詰めながら扉を開けて一番後ろの席に座ることが日課になった。全ては、自分という笑ってしまうくらい脆い存在を勉強という行為のみに支えさせた僕の責任だった。これまでに僕がやっておくべきだったことは何一つ見当違いだったのだ。放課後の掃除の時間だけが僕の輝ける唯一の場と言って良かった。

 

 

 

「あなたに話があるんだけど。」

スミレが僕にそう言った時、僕は図書室の入り口のサッシを指で引っ掻いて集めた埃を右手で摘み上げたまま、ほとんど蔵書の並んでいないすかすかの本棚を眺めていた。

 

 

「なんだろう、僕の掃除の仕方でも悪かったのかな。」

 僕が振り返ってそう言い終わる頃には、彼女は手際良く他の生徒たちと協力して掃除道具をロッカーに詰め込み、教室へと戻る外廊下を颯爽と歩いていた。

 

 

 

「あなたは、自分が普段他の人たちにどれくらい負荷を与えていて、それでも誰も何も言わないことに関してどれほど感謝すべきことなのか、知ってるの?」

 放課後になると僕たちの教室は軽音学部が使用することになっていた。僕とスミレを残したまま、教室は揮発性の無邪気さと初心者用のギターだとかベースを肩から下げた生徒たちの広場になってしまった。

 

何も弁明しようとしない僕を見るスミレが大きな焦茶の瞳の中に遣る瀬無い怒りを隠せなくなっていくのを僕はぼんやりと他人事のように眺めていた。しかし、胸のあたりでは何か体内にあるべきではないものが肺の中いっぱいにせめぎ合っているような気持ち悪さが渦を巻いていて、僕は今すぐにでもその場に吐き出してしまいたくなった。

 

 

「悪いけどここ最近の自分については僕には何も言えないんだ。うまく言えないとかじゃない。本当に何も言いようがないんだ。それに、僕がもしここでどんなに誠意をこめて君に何か語ることができたところで、君は僕を徹底的に、公正で正当な軽蔑をした後で二度と僕を友人として見做さないことに変わりはないだろう。」

 僕はだいたいそのような事をスミレに伝えた。もしかしたらもっと長くて回りくどい話し方をしたかもしれない。

 

 

 夏も終わりに近づいていたその日の帰り道で、僕は自転車で坂を下る途中、確かに桜吹雪を見た。その奥に見える桜の木は花弁の白さと競争するように体を墨のような決定的な黒に沈めつつある最中に見えた。錆びついたサドルが凸凹道を通るたびに二センチか三センチくらい沈んでゆき、帰宅した頃にはもう一度ねじを緩めて直さなくてはいけなくなっていた。

 

 僕はよく喉の奥から空気の塊が上がってきて、それが静まり返った体育館の中で大きな音を立ててしまうので全校集会やら学年集会がとても苦手だった。そういう時は息を止めて肩を強張らせてじっとしていなくてはいけない。僕のその喉の癖は未だに治っていない。なるべく意識を逸らすために片っ端から目に映るものを注視する方法で60分だとか90分だとかを乗り切っていた。僕は一度も話したことがなくても、誰が床屋に行って髪を切ったのかや制服のサイズが若干合っていないのが誰なのかも全部把握していた。校長のシャツの種類だって覚えていた。体育館の床には所々が捲れ上がったカラーテープが縦横無尽に貼られていて、ワックスが変に固った場所や何かの擦過痕はまるで琥珀のように照り、校歌を刻んだ板は二番目の歌詞の歌い出し部分がほかと比べてずっと黒ずんで見えた。

 

 

 

 

 海を一人で眺めている。家を出たのが午後四時を過ぎた頃だったので、元日の空いた車内からは夕暮れがとてもよく見えた。僕が目指している駅に向かう列車まで乗り換えの時間があり、本を読んで車酔いしている間にすっかり日が落ちて辺りは暗くなっていた。外の景色が黒だと、自分の座標が余計わからなくなってさらに酔いが酷くなった。無言で手を繋ぎ二人でそれぞれ違う天井をじっと眺めているカップルや、手に大きな紙袋を持った三人組の親子と一緒に目的地に降りると、海岸まで歩いた。なにか看板があるだろうと思っていたが、そんなものは一つもなく、とにかく僕は駅に向かって集まってくるバスの逆方向に歩き出した。街はアーケード付きの商店街があり、時々店を開けている飲食店が目に入った。イタリアンレストランやインド料理屋の中は窓が曇るほど人で溢れていたが、海の近くの寿司屋では客が誰もおらず、職人らしき老人は半ば投げやりな格好でテレビを見ていた。道はどんどん細くなり、途中で何度か鋭角に曲がっていた。本当に迷い込んでしまったのではないかと焦り始めた頃、急に靴の先がやわらかな砂を踏んだ。道を潜って砂浜に出て後ろを振り返ると、あちこちにレストランやアパートが点在しており、緩やかな弧を描いてその前を道路が走っていた。ついさっきまで波の音は全く聞こえなかったが、突然それが聞こえてきた。前方にはやたらとゆっくり明滅を繰り返す灯台の赤い光が見えた。僕は波に向かって歩いていくと、そのうち砂と砂の間にうすく水が張った一つの大きな鏡面のような地面に変わった。引き潮に合わせて波は少しずつ後退し、時々なにかの気まぐれのような早い波が僕のズボンの裾を濡らした。砂浜を横断して歩いていると、途中で二人の人間とすれ違った。一人は胸のあたりに懐中電灯を下げた褐色のジャンパーを着た中年のように見える男で、もう一人は灯りを持たず大股で歩く若そうな男だった。僕はなぜ海を見るためにここまで疲れながらやってきたのか考えてみた。それは少年時代に海沿いの街で暮らしていることと関係がありそうだったが、その街に引っ越す前から僕は海に対してなにか大きな期待を寄せる癖があった。しかし、僕のときどき抗えなくなる海への希求はほかの何かに対してそう思うよりずっと救いがあるように感じる。だいたい3時間か4時間も費やせばどんなところからも大抵は海に出ることができる。濡れた砂には動物の足跡が残っていた。陸に向かう方は砂が渇いているせいで、足跡はまるで海から何者かが上陸したあとのように見えた。いま突堤に座り込んでこれを書いている僕の前には僅かな街の光や船の灯りもない薄い墨色の海が広々と横たわっている。僕の住んでいた街では、海を眺めると必ずどこかしらにクレーンや漁船や船着場が見えた。

 しばらくしてから沿岸の反対方向まで歩くと、小さなガラスや貝殻の欠片が靴にサラサラと音を鳴らしながらまとわりついてきた。目が悪い僕は気が付かなかったが、さっきいた場所から遠く離れると島の陰にたくさんの対岸の街の明かりが集っていた。船の灯りらしいものもいくつか海には浮かんでいた。僕は砂の盛り上がったところに座り込み、空が地面で地表が空だと思い込んで見ることにした。首を傾げながら、なんだかその方がずっと決定的に孤独であるかのように感じた。

 帰り道では再び住宅街の迷路に迷い込んだ。来た時とは違う道を歩こうとしたせいで、僕は蛇腹のように大きく聳え立つ家々の間を歩いた。途中で何人かの老人とすれ違った。彼らこそがきっとこの巨大な家の持ち主なのだろう。駅へ抜ける通りまでやっと辿り着くと、僕がすれ違った老夫婦が交差点で信号を待っていた。夫婦共に髪は白髪で、あたたかそうなダウンを着ていた。二人は手を繋ぎながらゆっくりと散歩をしていた(なぜ先ほど逆方向に歩いていた彼らと今同じ地点に立っているのか僕には最後までよく分からなかったが、何せ道が入り組んでいるのでどこかで折れ曲がっていたのだろう)。僕は束の間彼らの後ろを驚かさないようにゆっくりとついて歩き、交差点を渡ってから先頭になって歩いた。夫である男性がおそらく彼らの子供のことを妻に語っているのが聞こえた。娘らしく、40歳くらいで致命的な精神的苦痛を2回味わっているらしく、彼らはその彼女のことをゆっくりと話していた。僕は彼らの皺だらけの繋いだ手を思い出しながらあまり離れ過ぎないように歩いていたが、突然彼らの声が途切れたので少し経ってから振り向くと、路上を折れてまた海の方へ二人は進んでいた。僕は道の向こうに渡ってから彼らの入った路地まで戻り、二人の肩が小さく揺れるのをじっと眺めていた。

 

 

 

 

どこにも移動が出来ないんだとしたら、僕は自分の中にいま地図を作ろうと思う。体に引き摺られてもうどれも見境なく塗られてしまっていても。そして僕がずっと拾ってきたのは遺物だと認めよう。母が起動して。悲しみは生理学以外の割き方をしたって仕様もない。ただ鳴らしていいものだと僕がいうことを差し込んで欲しい。別に物語だと受け入れられなくて構わない。そのときそれは反復の箱になる、周期になる。すべてはずっと前に遅延している。射程に入らないから掌に収めてみた、もう何も聞こえなくたっていい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025.3

 

7L・DKもある渋谷区の一軒家を清掃しながら鰯雲を見ていると、ふとアメリカを思い出した。まだ一度もアメリカに行ったことはないけど。別にスペインにもアルゼンチンにも何処にも行ったことはないけど。

 

俗物根性、という言葉が最近よく頭の中で行き交う。私には何人かの友達がいて、その人達に共通することは殆ど無いような気がするが、まあみんな大体は年の割にイノセントで、たまに俗物根性が見え隠れするというような気がする。たぶん世の中の人間はそういうものだろう。一日に五回は人混みの中で差別用語を叫ぶ友達もいたが、彼女は自動車整備士の彼氏と五年くらい穏やかに同棲していくうちに、びっくりするくらい病熱が引いた。一方で、ものを書いているということで話をし始めた友達などが、よく爪を研いだネコみたいに着々と世を嫉み壁を築き上げていっているのもよく見る光景だ。彼らはやがてわたしの手のひらにも蔑んだ目を向けるようになる。世界は今日もなんとかならないままになんとか回ってしまっているのだ。アーメン。

昨日は雨だった。隣で友達がさしていた傘はフリルのついた紫色のもので、内側に動物の凝った絵が描いてあった。雨の日は全体的に音が弱くなるように思う。山手線の上野駅のホームは、総武線の新宿駅のホームになりたちがよく似ていた。その日入ったカフェは一杯のオレンジジュースに九百円の値が着いていた。ベトナム語をまくしたてる家族は誰も傘をささずに交差点で信号待ちをしていた。四月に買ったスニーカーはぐしょぐしょで水まんじゅうを踏んづけて歩いてるような感触がした。

よく出会ったその日に男の人とベッド・インしがちな知り合いの女の子が、骨だけになっている夢を見た。女の骨格はやはり小ぶりで、歯などはかなりしっかり残っていた。虫歯の痕すら見えた。骨は全身きれいに揃った形であお向けになっていた。とくに骨盤のあたりは少し周りの砂をかぶったせいか、全体的に黄土色になって少しかさかさしていた。そして、頭骨の内側にはスポンジを細い金属で引っ掻いたみたいなあとが付いていた。目のくぼみは、円というよりは角の少し取れた四角いうろのようで、周りには何か色のついたビニールが焼け焦げたみたいな副葬品が散らばっていた。わたしは強い風が吹き荒れるなか、砂丘をよじ登ってうえから赤い染料を撒いた。ちょうど鎖骨のあたりにその色が斜めに染み込んだ。もう一度傍に寄って、彼女の手の甲の小骨をかがんで拾い、目白駅を少し過ぎたあたりで黒のレジ袋にそれを包んで、優先座席の下に置き去りにした。電車を降りるときに一度だけ振り向くと、蛍光色の緑のヘッドホンをした若い男がそこに腰を降ろすのがみえた。

帰り道、家まで歩きながらわたしは母親に電話をかけて泣いていた。

DANCE

一条ゆかりの「天使のツラノカワ」を、頁を開いたまま布団に伏せた。東京に戻った日に新川崎で買った「金閣寺」は177頁まで読んで閉じられている。村上春樹「雑文集」は序文2項を読んでまた本棚に戻された。ここ最近、最も向き合う時間が多くなっているのは英単語帳かもしれない。好きなアーティストのアルバムの曲順を覚えるように、語の並びすら倦んだように頭にこびりついてきた。踊るんだ、たとえ____

 

足がもたつく。向けられて受け取る、後ろに下がったコンディションの悪さではなく、積極的に感じる己の肉体の虚脱。快く感じていた歩調、許容できた運動量、それから摂取していた栄養での燃費の変容、滅多になかった頭痛や腹痛、目眩の出現。

 

人が、途絶えるのは本当に直ぐ傍の塀を潜った先だ。

ふだん私達は土を集め、固めてその上をどこまでも続くという顔をして道を歩いていく。その土となるものは、例えば来月に迫った試験であったり、携帯電話にインストールしたゲームアプリであったり、肌荒れに正しく薬を塗ることであったりする。日常のとるに足らないようなものを集めて透明の階段をのぼる作業。

自分自身だけは映さないとくべつな鏡を見る人、それが大衆だ。つまり、大衆には顔がない。

日常生活を恙無く送るということが如何に難しいか、ということはその達成の困難さと比べて実に簡単な論理からできている。つまり、日常生活というのは大気中の花粉をひとつずつ集めて瓶に入れていくような行為だからである。目に見えないほどの、気に留まらないほど微細な現象、信号、選択を問題なく可視化できるほど集めてできた集合体なのだ。ほかの誰にも似る私をいまは求めている。

 

それ以外に方法はないんだ。色んなことをもっと巧く説明してあげられたらと思う。でもそれはできなかった。踊るんだ。できるだけうまく。

ねじ女

去年書いたけど、更新したら最新の記事になったみたい。現在の状況をところどころ書き加えた
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下北沢の裏番長

閉店したのは知らなかった。いま住んでいるところが下北沢までとにかくアクセスが良いのでよく下から眺めているが、いつもたしかに閉まっていた。夜が遅いからだと勘違いしていた。

 

太鼓の達人

どうやら自分のバチを用意してプレイするファンがそこそこ多いらしいね、あのゲーム。

 

カレー

カレーは外食で一度も食べたことがない。カレーを外食で食べるのは自殺未遂よりも自分の中では頻度が少ない。こちらはまだカレーの悪くなさに全然気付けていない。まだ子どもだから。 

 

母親のファッション

最近わたしは年上の人をまずその理由だけで須らく尊敬する。子どもを持つ母親である人を須らく恭しく思う。きみの母親に対してもそう思う。

 

さんふらわぁ号

同業者にあえて誤字を指摘するとさんふらわあ号である。この前小豆島に帰省したときもフェリーに乗った。愛媛の東予から大阪まで帰るときオレンジフェリーという船に乗った。名前に似合わず豪華客船のようであった。そこで佐藤さんとシャンパンを飲み、彼は鯛のあら煮を食べ(学食みたいに自分で料理を取るシステムだった)、夜にはひどく精神的に船酔いした。

 

就職活動はつらい

就職活動はつらい。いまは表参道の結婚式場のスタッフをしている。Zoom面接5分前になっても歯磨きが終わらず服も着替えていない自分に代わってに佐藤さんが手際よくセッティングをしてくれた。彼は私の素晴らしく洗練された好印象ロールプレイングを褒めてから、これではギャップに苦しむのではないかと心配していた。出勤2回目でもうその言葉は現実味を帯びている。この前駒澤大学前の事務所で、モデルのプロフィール撮影を終えた後、上野毛まで歩いた。SHEINの安サンダルのかつてない冒険。彼女はくたびれてつま先のリボンが力なく解けてしまった。こころなしかツヤも減った。その週の金曜日に、内定を受けにもう一度行く約束だったが結局行かなかった。カレンダーには書いていたのだが、その時私は家で煙草を吸って母親とビデオ通話していた。

追記 もうブライダルスタッフはやめた。理由は前に電話した通り。その後家事代行、コンビニ、外資系イタリアンと移行したが現在はまた別なバイトをしている。本当に籤運の悪すぎる2025だったよね。

 

 

目薬的サリンジャー

また私は海外文学から逃げている。逃げてはいない。ただ積読でなく現在読んでいる本が手いっぱい過ぎる。こちらは目薬的に三島由紀夫を読んでいる。初めて読んだのは「音楽」。つぎに「夜会服」。いまは「永すぎた春」を読んでいる。いま他に読んでいるのは「男子の本懐」、「赤の女王」、「ダンス・ダンス・ダンス」、「教養としての大学受験国語」、「システム英単語帳」。

追記 ここにあげた本は男子の本懐とシス単以外は2025年に読み終えたよ。まだ海外文学は読んでないな。

 

卒業

その低コスト化されたジョン・ウィックにこの前初めて連絡をした。昨年度に突如連絡先を消して以来、ずっと誰にも連絡しなかった。

追記 今はまた繋がってないな。

 

禁煙には完全に失敗した

私は大成功を納めた。煙草をやめたくないと喚いていたらまた吸えるようになった。きみはせっせとこれからも要所要所で禁煙に励むのかもしれないが、こっちはせっせと煙草との距離を取り戻していこうと思う。大体、人生で煙草より注意すべきストレスは嘘みたいにたくさんある。雨の日には傘の先端で目潰しを食らわないように注意しなければいけないし、電車の向かいの男から盗撮される度に本で顔を覆わなきゃいけない。最近春になってみんな少しずつおかしくなっている。みなとみらい、近所のイオンモール、神宮近くの交差点、あらゆるところで異常に酔っ払って人に絡みつく老人が大量発生している。

追記 やめたいともやめたくないとも思わずに暮らしてたんだけど、たぶん年明けから吸ってないな。このまま引退するしかないかもと思う。タバコは哲学だったな、そう思うよね。

 

友人のネットの知り合い

彼には選ぶべきことが二つある。死ぬか、死ぬかだ。

 

いい店の焼き鳥は芸術的なうまさ

全面的に同意する。地元にあった芸術的な焼き鳥屋は、そこの看板メニューだった絹織物みたいな舌触りのレバーと共に何年か前全焼した。

 

彼女の出産

彼女はそんなに悪くないと思う。というか、全然悪くない。そんなことはみんな分かりきっている。しかし、なんというか一種の不和を感じる。どちらかというと彼に対して強くそう感じる。彼は僕にとって、施設の中で2年間粘ってやっと手に入れたアルバムという存在としてのみ回っている。

 

業務スーパー

やっぱり業務スーパーは信用できない。信頼もできない。妥協はできない。

追記 節約をかなり頑張ってるけど、普段のスーパーで半額品をパトロールして冷凍保存する手法があるからまだ業スーには手をだしてない。

 

ジョージ・オーウェル

だいたいどこの世界でも善なる紳士が最悪なディストピアと距離が近くなる。なぜかは分からない。

 

私が如何に春を寸分の隙無く認めていないかについては、下北沢たんぽぽハウスでよく思い知ったと思う。しかし春嫌いというかアンチ春代表として告白すると、実は上野公園や不忍池に花見に行ってしまった。不忍池ではボートにまで乗った。とんでもない長蛇の列だったのだが並んでみた。一気に何人もボート乗船の回転によって池へ放出されるので、待ち時間は嘘みたいに短かった。行き交う人々が下手物を見る目でこの長蛇の列に並ぶ私たちの顔を見ていたのが印象的だった。気持ちはわかるが、そんなに顔を顰めることもないと思う。ただのボートだ。

 

ラブパワーキングダムを完走

恋愛リアリティーショーについて手厳しく弾圧するのに飽きた。でも私の恋愛リアリティーショー批判は機知に富んだブラックジョークが満遍なく聞いててちょっと面白いとは思う。

 

従姉妹

きみの従姉妹の話をあまり知らない。彼女も絵に描いてもらったりしていたのだろうか。

 

万博には一度くらい行ってみたいかもしれないな

私も、あの万博がなにげに気になっている。最近ZIPを欠かさず見れるくらい早起きになった。ZIPでは毎日その話で持ちきりだ。ちなみに気になる度合いとしては全く同じだ。万博には一度くらい行ってみたいかもしれないな。 

 

学部同期女子たちとの飲み会

出題範囲が既存の恋バナで良かった。だいたい、老人も幼稚園生も同期の女子もこちらが心奥でかれらを蔑んでなければ関係性はそんなに致命的にならないということを最近やっと分かりかけてきている。

 

 

最後の話はお気に入りなので引用する。

近所のガチ中華が結構イケる。中国籍の友人が翻訳バイトで給与を得ており、日本円への両替に法外な手数料を要するようなので、Alipayで精算できるその店に通うことに、しばらく付き合おうと思ったりする。

 

今後のことや私の書いたものへの感想もありがとう。SNSをやめてからリンクを貼る場所がないので人目を気にせずこの場で練習に励んでいる。始祖鳥は私のチャットGPTとのやり取りです。クラウスのほうは元気ですか?

京都という土地からは私ももう何も搾り取れない。3人目の父親がまだ元気だった頃、小豆島でオリーブオイルの搾油の仕事をしていた。とんでもなく具合の悪い内臓みたいな色の、少しも液体の残らなかった搾り滓を思い出す。京都を離れて京都がやっぱりキライだったなとも思う。また再び訪れるとして、今度こそ完璧な他人行儀を決め込まれるのもなんだか目に見えてて苦笑する。だけど人に罪はない。主に某爆心地数箇所から放たれる無気力と驕りの煙はすごく最低だった。でもそういうのも含めてモラトリアム的だったとも思う。よく言えば本格的な社会の闘争の土俵に乗らずに安全圏で生活できた。悪く言えばどこにも結びついていない中空のぞっとするような奇妙な薄気味悪さに打ちのめされた。(追記 いまシャワーを浴びていて考えたけどあちこちの人間の中に点在する自己憐憫が京都の諸悪の根源だったと思う。)

追記 去年の11月、案の定ひどい思いをした。あの時はすごく親身になってくれてありがとう。

 

きみと色んな作品について話すのが一番愉しかった。美内すずえの傑作選を本郷の古本屋で手に入れた。高かったです。さっきも書いたけど三島由紀夫を色々読んでいる。あの3つだけでも全く違う質感。回転木馬のデッド・ヒートをとみさんに貸してこの前帰ってきた。村上龍の69を入院期から止まっていた続きも全部読んだ。最近NHKで村上春樹の神の子どもたちはみな踊るのドラマがやっている。原作とは9割くらい設定やあらすじが違う。ドライブ・マイ・カーも2年前途中だったのを見終わった。小学生の頃ボロ泣きして読んだ、冲方丁のはなとゆめを買い直した。渋谷のコンカフェの面接の待ち合わせのタイミングで読み終わり、交差点でわんわん泣いた。面接官と合流して、泣きすぎて酸欠のようになってふらついたら靴が派手に壊れた。セブン-イレブンで一番高いアロンアルファを購入してもらった。結局そこは自分から連絡をして内定を取り消した。今になって風の歌を聴けを読んだ。

 

 

 

 

 

 

 

魚になれない魚

僕は昔から無駄に顔が良かった。二世芸能人であまり親の容貌を受け継がずに叩かれている人に月極でレンタルしようかと思うくらいだった。僕の容姿を月々25000円で手にした彼ら彼女らのもとには、映画やCMや小洒落た雑誌のモデルの仕事がひっきりなしに舞い込み、僕がそれをぼんやり見つめる想像をした。くだらない想像だが、親の喧嘩の狭間に意識を飛ばすときにはよくこの乗り物に乗って旅をした。僕によく似た母親の高い鼻と、もっと僕に似た父親の瞳を見ていると、僕は両手を繋がれた宇宙人の合成写真の中にいるみたいな気持ちになった。去年、五反田で一人でカラオケボックスに向かう途中、名刺をもった芸能関係者と謳う男に声をかけられ、そのままカラオケを奢ってもらった。男が熱心につばを飛ばしながら読者モデルの話をしている時に、僕はスプライトを頼んでスガシカオの「バクダン・ジュース」を負けじと歌った。「最近どこでも 比較的簡単に 手に入るそうだし…バクダン・ジュース とかしてよぼくの」まで歌ったところで、彼が突然ファスナーを下げて僕の手を掴んで自分のほうに引き寄せた。僕はマイクで彼の胸のあたりを何度か叩いた後に部屋を出た。背後でバックコーラスが続きを歌っていた。いつもそうするように、僕はあえて彼に聞こえる距離で110番をして住所を告げた。当然、警察はバカみたいに綿密に出来事を説明しないとそもそも出動もしない。ただの脅しのために電話代を60円無駄にして、僕はそのまま彼女の住むアパートに走って帰った。その時一緒に住んでいた彼女は保険会社の営業をしていた。僕がふだん何をしているか尋ねないのが彼女の長所だった。僕がふだん彼女と話す時間を何よりも楽しみにしていることを理解していないのが彼女の唯一の欠点だった。2日後に休みの彼女と二人で近所の輸入品売り場に行ってビールを選んでいると、いつにも増して周りの人間が僕のことをじっと見ている気がした。僕は一番手元に近かった二本の缶を掴んで彼女の持つかごへ入れた。彼女はおつまみを選びにもっと奥へ入ってしまったので僕は店の外のベンチに座って待っていた。「だいたいね、気にしすぎよ。」彼女は会計を済ませてこちらにやってきた。「見られてるのが妄想だって言いたいんじゃないの。要は見られていることに悪い付加価値をつけちゃうような心持ちが引き寄せるのよ。いろんな面倒なことを。」卑屈な男は女と違ってまるで価値がないと僕は小説で学んでいた。卑屈というのはどうしようもなく物事を曇らせる。僕が過去で一番好きだったその主人公は卑屈に生きて卑屈に死んでいった。たった一人で。フードを目深に被ってから、中学校の体育のダンスの授業で習った下手くそなステップを踏みながら街を歩くと、たしかに見られていることくらいなんでもないことのように思えた。僕は一旦彼女と分かれて本屋にいき、いつものように100円コーナーで背取りをしてから駅前の花屋にいってオレンジ色のガーベラを買った。宇宙人が植物を手にするとどうにも胡散臭いが諦めてもらうほかない。僕の鼻筋には河原の砂利が詰められているから高く見えるのであって、本当は彼女とおなじく親しみの持てる丘陵のような鼻筋がしずかに眠っているはずだ。彼女の流産した子どもの名前は結局決定されることは無かった。ぼくのデオキシリボ核酸は宇宙人情報を密かにあの子にも仕込んでいたのだろうか。帰り道にオープンテラスのカフェからスピッツの「魚」が流れてきた。僕は魚の目が羨ましかった。