森で10人以上で鬼ごっこ等で遊び、
夜に屋上で語らい、バーで乾杯して熱い思想に痺れ、
旧い木造建築の中でセブンのケーキを食べ、蚊取り線香を面で燃やし、
キュビズム展のポストカードを貰い、作者の生存年数の暗算ができずに4つ下の男子学生にプレゼンを欠席させかけ、
ハチミツとクローバーを読み返して悦に浸り、
そして今キーボードをたたいている。
誕生日コンプレックスがかなり重症なのが私の特徴だ。
誕生日=人気調査チェックの総決算って感じがしないか?私はものすごく強く意識してしまって毎年楽しみよりも恐怖が前に立ってしまう・・・。
(机の上に積み重なったお菓子や購買のパンの高さが人気度合いの具象化だった高校生時代は法則性すら見出せてしまって特に打ち震えていた。)
21歳最後の一日だね、と前日に届いたLINEから緊張感はMAXだった。
6月12日はサークルクラッシュ同好会の例会があったので、いつもの顔触れに加えてほかにも京都の学生たちと過ごせる日だった。
でも肝心の13日はどうしよう・・・と思っていたら京都大学吉田寮でゲリラ食堂があるからおいで、と誘いがかかったのでほっとしたのだった。
私は一人暮らしをしているが、誕生日は家で引きこもる&昼夜逆転で目が覚めたら日没後ルートが全然あり得そうな範囲で予測できていたので、京大周辺で今週は予定が詰まっていたこともありサークラの代表のホリィ・センのシェアハウスに泊まって翌日吉田に行こうと石火のごとく考えた。
21歳最後の昼下りに、誕生日ブルーの暗雲を一掃する勢いで化粧がすごくいい感じに仕上がったので
その時点で「今年は何か違うかもしれない」という具合にかなり胸が高鳴った。
いつもは使わない高価なアイシャドウパレットのピンクを基調にグラデーションを付けて星屑のようなラメを瞼に冠する。リップは二本使って重ね塗りをした。
最期に化粧が最高に上手くいったのは3月の末だった、と記憶しているので誕生日付近にメンタルヘルスのご加護を取り戻せてよかった。
12日午後2時。出がけにチャリ鍵を紛失したことに気づき、急遽バスに乗ってまず最初の用事に取り掛かる。
2か月バックれた精神科も、第一線から退いた院長が優しいおじいちゃんそのままの口調で「今日は○○先生(院長の息子さんが私の主治医なのだ)の予約とって帰りなさいね」と言ってくれて事なきを得た。
心理検査の結果を持ち帰るだけで薬の受け取りもなかったので、そのまま学食に移動してその日最初のごはんを食べて、18時半からのインプロ(即興劇形式のコミュニケーションゲーム)を楽しみにしながら生物の勉強をした。
出町柳改札前でサークラの面々と合流し、結局は日が完全に落ちた後まで“傍から見るとかなり奇異なゲーム”を総勢15人程度で行いながら時間を過ごした。
ちなみにインプロは普通の鬼ごっこやジェスチャー、人狼、伝言ゲーム的な文脈に突飛な文脈が加わることで成人越えの我々でもかなり本気で楽しめるものだった。
(文節ごとに架空「星の王子様」をバトンを繋いで頓智気な宇宙戦争に発展したときは原作主義っぽい私でも声に出して笑ってしまった。)
だいたい活動が終わるとみんなで車座になって夕食を食べながら語るのだが、その日も例にもれずそれは行われて、屋外だったこともあり夜の薫風が心地よかった。
(次回の例会は「りりちゃんの頂きnote全文の読書会」をする私の要望も通ったし!)
その後銘銘が主にチャリに跨って散っていく中、
サークラで初めて喋った院生の二人と近くのこれまたハイコンテクストなバーに行く流れになり、私の頭の中で「13日になる瞬間に家で孤独ルート」がほぼ完璧に回避できたことを確信し密やかにガッツポーズをしたい気持ちになっていた。
院生生活や専攻の話で花が咲く中、突如私が勝手に菩薩と称する知人がハレー彗星のごとくバーに入ってきて私はかなりマジで嬉しかった。
彼は既に歩くハッピー・ピープルとでもいうべき「出来上がり具合」だったし、偶然彼の苗字と同じ九州の日本酒が置いてあったこともあり、彼の「すごい調子いい」感じはその場に浸透し、貰い鬱ならぬ貰い悦を得て私たちは彼の引導のもと、日付が変わった瞬間に盃を交わした。
『ポル・ポトは実は右派なんだよなあ』が個人的にしっくり来たMVP発言で(改革と保守は両立するいい実例)、宝石の国完結に伴う人類学への私と彼の思いの派生も確認できたし押見修三の「おかえり、アリス」最終巻のあとがきの「男を降りよう」と藻搔く慧ちゃんの話もできた。
(しかし、なんといっても、ずっと社会の最底辺弱者層に位置してきた私と、彼の描く理想のセーフティーネットの構造の話が有益だったと言えるだろう。)
その日は午前三時半ごろに帰宅したホリィ・センより早くシェアハウスに行き、「一人」でも「独り」でもない状況で安眠することが出来た。
仕事に出かける堀内(ホリィ・セン)を何となく感じながら、
“計画的に感染させられた梅毒で国立の研究センターに収監され、実質人権の存在しない生活から自分のすべてを尽くして大脱走する夢”
を同時に見ていた私は結局、昼過ぎに目を覚ました。
(それぞれ異なるNPO法人3つから3回逃げ出した私の人生の抜本みたいな夢だった)
吉田寮に向かって歩きながら、日の傾き始めた京都の街並みを見て
「東京至上主義でずっと突っ走ってきた私が22歳の誕生日を京都で人生初の一人暮らしを大混乱の中、命がけで入手して迎えることになるなんて思いもしてなかったな」
と思った。
(ちなみに去年は非言語的コミュニケーションの食い違いで事故的に元彼と同棲していた高田馬場のアパートに入れなくなり、錦糸町の友達の隠れ蓑のホテルに泣きながら終電で駆け込んで、百均のティアラを付けてニコ厨メドレーを二人で踊った。)
寮でグリーンカレーを食べて、サークルのプレゼン例会を蹴って一緒にセブンに行ってくれた後輩は、ケーキの上に仏壇用の蝋燭を付けるか花火を付けるかで逡巡していたので私は(最近の花火ってこんなに高いんだ)と思いながらお目当てだったケーキだけを買ってもらった。
蚊取り線香を窓際から持ってくると、私にライターを借りて彼は両方から火を点けて実質には面でそれを燃やし始めた。
真っ白なクリームのケーキを食べながら、昔の日本では皆が一斉に年を重ねていたから誕生日を祝うのは輸入された文化なんだよ、という話をした後にキュビズム展で一番お気に入りだったという絵画のポストカードを贈ってくれた。
フランティシェク・クプカという画家の名前と生没年が後ろに載っていたので、暗算がとにかくできない私が彼に計算してくれ、と頼むと質問が質問で返ってきたのだが、私はジョジョ構文で逆ギレすることはせず、難問に悶々と悩んだ。
そうして誕生日が終わった。母親が送ってくれた段ボールは21:00にぎりぎり間に合わず14日に再配達されるらしい。
こうして2024年の試練をなんとかやり過ごせた。怖かった。とても。
一番良かったのは、現在の父親のお見舞いに母がものすごく久々に赴いた報告が聞けたことだった。
父は10分間しか面会が許されていないので、私がホームレス時代に体を売って心を不可逆的に圧殺して交通費を工面して這うように医大に辿り着いた時も
タイマーが渡されたのだった。
誕生日は親がメインの記念日だと思う。
母親とは国交回復に努めているのでいいけれど、
他界した父親には直接何かを言ったり言われたりはできないのでせめて三人目のいまの父親にはなるべく沢山会いに行こう、と思った。
無事22歳にさせてくれたこの世界に少しと母親と父親には多くの感謝を込めて。