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飛ぶ前に見ろ、それができたら嬉しいね。

【散文】これは小説のカタチになれなかった文章のバラバラ

    

興味対象にされるか、研究対象にされるか、異物を見つめる目で見られるか。

 

大体がこの3つで収まる生き方だった。

 

 

 

私は0から何かを産むのがなかなか出来なくて、私が書く小説も偶に描く絵ももっと偶に書く詩も、全部が自分の今までこの2つの眼で視て識ってきた事から成り立っている。   

 

 

 

だからこの前「何も引っ掛かるものが見当たらなかった」と、私の文章に目を通したとある編集者に言われた事を知って、創作の構成や言葉選びや筆運びが否定されたのではなく、自分の人生で見聞きしてきたものが全部取るに足らない戯言だと言われた気がしてならなかった。

 

 

私はあくまで巫女のような仲卸のようなモノで、私のコトバは私のモノであって私だけのモノではない。

 

皆んなから託された傷や光や信念や命をワタシが代わりに引き継いで背負って生きてる、と頭を使ってシナプスがパチパチする間もないくらいには肌で理解っている。

 

 

だから皆んなごめん、と思った。

あの景色もあのコトバもあの表情も、私という媒体を通して皆んなが遺したかった事を、私はうまく著せなかったらしい。不甲斐ない。不甲斐ない不甲斐ない不甲斐ない。

 

 

 

 

だってそんなわけないんだから。皆んなが血の涙を流した記録が取るに足らないなんて事は“絶対に有り得ない”んだから。

 

(皆んなの中にはワタシという個人の見聞のストックも勿論含まれている。)

 

 

 

 

私はずっと世界がふたつ(少なくともふたつ)ある間に横たわる綱を両手でバランスを取りながら辿々しく足を運んで生きてきた。

 

 

それは文字通り、普通の心と身体でコネクトする世界と、ココロとカラダに変換された自分で立ち入る領域と『本当に』ふたつあるのだ。

 

 

 

 

 

私はどちらの世界の住人もどちらの世界をも恨まずに踏み躙らずに存在して欲しい、と思っている。そして私はそのふたつにお邪魔する事が許されている。

だからこそ、A面にはB面の、そして逆も、背景と文脈を伝えてこれ以上世界が乖離し続けて離れていくのを防ぎたい。

 

そのふたつが千切れる時、目を覆うような流されなくていい筈の血がたくさんたくさん流されるのを識っているから。

 

 

 

 

 

 

   

 

この前の7月19日、野方駅から高田馬場、池袋、宇都宮、黒磯、新白河、そして地元までの長い夜の電車の中で私は額になにか青くて円い印を彫ろうかな、となぜか自然に思った。

 

刺青は願いであり祈りでありバリアでもある。

 

 

 

私をこれ以上蝕むモノがこれ以上私を通して私の出会った人たちをも食い荒らす事のないように。

 

 

 

 

 

 

 

 

幼少期は、【顔と骨のない、私を愛してくれた父】が在なくなってから祖父母の退職金で建てた山奥の家に母親と二人で暮らしていた。

 

だから私は子供がただでさえ親をセカイだと認知してしまうように、余計に母親と祖父母と事情を知って世間から守ってくれる従兄弟たち、親類みんなに囲まれてある意味で滅菌され過ぎた温室で育ってしまった。 

 

祖父母は油絵を描くので、紙芝居より大きいくらいの画集がたくさんある家で、私はひとりでクレヨンを使って模写をしたり、家の庭に冬の朝やってきた狐の親子を眺めたりして過ごした。

 

傷つき過ぎた者たちが静かに息を潜めて肩を寄せ合うその空間は、あとで17歳になって初めて閉鎖病棟に入った時に懐かしさとして私に降り掛かる事になる。

 

 

 

 

 

この前、院外外出を手伝ったのは三人目の父親で、今でこそやっと親子のように笑ったり冗談を飛ばす関係になったが、私が五歳の頃はまだ難病と精神病に静かに侵食されている途中で常に苛立っていたし、兄の髪の毛を掴んで身体を殴ったり、私の作ったご飯を目の前でゴミ箱に捨てたりしていた。沙羅、という名前は怒声と共に耳に入る以外の用いられ方をされなかった。

 

でも、私が小学校高学年の時についに倒れて、そのまま現在に至るのだが、医大ICUで何度も死にかけて主治医に私たち家族は呼び出されるわけだが、その何処でかは知らないが、父は昔の自分の振る舞いの記憶がまるで消えて思い出す事ができない。

 

私はかつて自分を苦しめて幼稚園児ながらにアイロンで手を焼くくらいに追い詰めた父を見て、爪が食い込んで血が噴き出すほどに握りしめた拳で今なら痛めつけられる状況に立たされたわけだけど、まだ若いのにオムツをつけて酷い褥瘡が膿んで骨まで丸見えになった臀部や、たくさんの管に繋がれた細すぎる体躯や、皆から器用だと褒められた指先が壊死して真っ黒になっているのを見たらもうなんだかすべてどうでもいい気がしてしまった。

 

痛い、痛い痛い、可哀想。

私は栄養剤をゼラチンで固めた薄いピンクのゼリーをパパの口に運んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

私の中にはたくさんの言葉が沈殿していて、少し体を揺らしたらスノードームみたいに舞い上がって散り散りになってまた静かに沈殿する。私は小説を書いてるというより、自分の頭を移植させてメモリーを増殖しているという表現が近い気がする。そうすることで、私という個体が背負う重さが減った気がするから。

 

 

 

私はかるくなりたい。言葉の海で溺れるのは、いやだ。

私の躰と溶け合ったそれらはもう私の一部だから善でも悪でもない。

もう私の胎の中では私に傷をつけることはない。

 

私と同じような目に遭ってしまった人のいつでも話せる友人のような文章を残しておきたい。私と同じ目に遭わなくて済むようにうまく迂回するルートを皆んなが私の中に一瞬潜って鍵をとってこれれば良い。私のような人間を、健が斬られてるのを良い事にもっと死体蹴りするような人が、私の言葉を通してみんないなくなればいい。

 

悪はどこまで追いかけてもいつも捕まえたその先にある。こいつが、と思っても結局それも悪に巣食われた側であるだけで。

 

自分が無謀なことを考えているのも分かっているつもりだが、かと言って唯一しがみついてるこの場所から手を離すつもりは今は更々ない。そうやっていつもネジをきりきり巻いて、自分の手によって自分が軋む音を聞く。でも他人に明け渡して分解されて捨てられるなんて許せないので、私はやっぱり今日もネジを巻く。

【私小説】題名は読み終わったあとにあなたが決めてください。

あんなに全てがあって全てを剥ぎ取られたのに、私の全部の組織とレツが癒着し過ぎていたせいで、流れ続けるものが血なのか涙なのか髄液なのかはたまた他の体液なのかもわからないくらいだったあの裂け目を、私は未だにきちんと理解できてないんだと思う。

 

 

 

 

 

 

たぶん私は無意識のうちにレツのことをもう一度書き起こして昇華させたかったんだと、薄っすら車内灯が青く光る東京行きの夜行バスの中で心まで青色に滲んだ。

 

18才の12月27日から2月25日までで私の人生は本質的には終わっている。そのエピローグを私は毎秒噛み締めてやっぱり生きていくんだ、と乾いているのに大粒の水滴がぼたぼた落ちるような笑いが一瞬、私の顔を奪った。

生まれ落ちたときから目が見えない人に紫色を教えるくらい、今から私が文字に起こそうとしていることはとても困難で、どんなに足掻いても何百分の一に縮小されたガラクタにしかならないのを承知で始めよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

I高生だった私は、Twitterのいくつかある鍵垢の中でも一番友人を厳選して動かしていたアカウントにある日届くはずのないDMが届いてるのに気づく。

 

(誰だろう......、今更こんな目眩しを散々し尽くしたアカウントになんでフォロー外からスパムでもないメッセージが入ってるわけ?)

 

 

 

 

 

それがレツとの“顔を合わせる前の出会い”だった。

 

 

私の友人達は皆がそれぞれ究極的なマイノリティーに勝手に乗せられてしまった人たちだったのだが、幸か不幸か私たちは本当に狭い人間関係の中でコネクトされてしまった。

 

 

 

 

 

 

人との会話はなんかもう言葉や文章じゃない。

 

 

(相手の雰囲気的な好悪を読み取って、取れるけど若干取りにくい上級者向けのボールを投げ、まず見下されたり馬鹿にされるのを初手で完全に封じて、他と違う毛色を相手が自ずから見出すようにしなければならない。)

 

私は最近になって相手次第で表現は使い分けすれば良いと思うようになったが、若い頃は今よりもっと、底なしの深い関係に出会った全員とならなければ、という思いで生きていた。

 

 

だからレツとのDMは、お互いがパワーゲームをして精神的な優越権を絶対にそれぞれが死守するやりとりだったので、抱いた印象は「この人、まるで自分みたいな予防線の張り方をして会話をするんだな」だった。

 

 

私達は若かったし、自分の才を人知れず大切に温めてきたため、自分に似ている、まるで双子のようなお互いに興味を抱いた。

 

ものの5分くらいやり取りした段階で、私はその時住んでいた場所から何県も離れたレツの住む場所に引っ越すことになった。

 

 

 

 

実際はその後1ヶ月ほど解毒の為に閉鎖病棟にいたため、秋に引っ越しを決めたのに彼と対面でようやく会えたのはクリスマスも過ぎた頃になっていた。

 

 

 

アパートの下に着いたことをこちらも同じI高生のレツの同居人のアヤトに伝えると、本やギターをはじめとする私の重くて嵩張る荷物を運びに二人が降りてきた。4階から二人の話し声と、リズミカルに階段を降りる音がした。そのとき、何故かまだ見えるはずもない二人がどんな距離感でお互いどういう表情を交わして降りているか、私はありありと本物の光景のような絵が浮かんだ。それは今も脳裏に写真記憶のように残っている。

 

私は二人と初めて顔を合わせたときに“この目に映る景色すべて永遠に記憶しよう”と決めたため、今日だってレツの履いていた靴や羽織っていた上着まで思い出すことができる。

 

 

 

 

なんとか荷物を運び切って、皆んなで紅茶を飲んだ。

(私のギターはきちんとスタンドに収まり、隣にはアヤトのお気に入りのレコードが立て掛けられた。)

ステンレス製の先鋭的なデザインの器と、わざわざ1時間半近く電車に乗って買ったという美味しい茶葉の話をするレツを、私は交互にじっと見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

レツは私が出会った中でも、歴代捲ったページの中でも、これまで見た映像や写真の中でも、最も惹かれる顔立ちをしていた。顔という記号を以って、私の全ての心を磔にしてしまうような。

 

 

彼の周りだけ空気の層が違うようだった。背中や指先だけを見たとしても、レツ自身の類を見ない人間としての生が痛いほどに目に飛び込んでくる。

 

レツはフィンランドの冷たくて白い針葉樹のような声で話した。

密やかで静謐でガラスというより陶器のような、例えどれ程急ぎの用があっても絶対に手を止めてじっと耳を傾けてしまうような、そんな喋り方だった。喉の震えが、どこか世界に怯えているような、そんな半透明な哀切を感じさせた。

 

 

 

 

レツに対して、私の全てがこの人には敵わないと天啓のようなものを感じる。そんな確信が毎秒生まれるのがあの頃の生活だった。

 

 

レツがどれほど絶対的な才能を備えていたのかの説明は、砂の城を波が来る前に崩すような禁忌的な気がしてならない。知識の層も幅も深さも扱い方も、まるでこの世界全ての書物を保管する図書館で永遠に管理人することを命じられているヒトではない別な存在を彷彿とさせるものがあった。

 

 

 

 

 

私たちはあまりにも多くの言葉を交わした。レツと話すと、辞書からせっかく移植したのに一度も用いる事が叶わなかった言葉たち、そして私の異類な肉付きで得た言葉たち、いびつに突き抜けた考え方や私だけが見える脳内の色彩をあらわす言葉たちが初めてしっかりと受け止められた。それは人生で初めてのことだった。私自身をきつく抱きしめられることよりもずっと、私にとっては最も必要で、けれど誰一人できなかった抱擁の仕方だった。

 

 

 

私たちは恋人らしいデートは思い返せば殆どしなかったようだ。

 

それよりも、お湯を沸かしながら、煙草を巻きながら、電車に揺られながら、診察を待ちながら、スピーカーを調節しながら、ベランダから街を見下ろしながら、夕食を近所の店まで買いに出かけながら、

言葉(ココロ)と言葉(ココロ)を繋いで様々な世界を覗いて、手を伸ばして触れて、そして味わって飲み干した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私たちの前にはすべてがあった。

無限という存在を二体の有限が創った。

 

 

 

 

 

 

 

 

まるで冬のような人だった。

 

冬に出会って冬に終わったからそう思うのか、だけど彼からはしんしんと降り積もる雪のような音がいつもしていた。

 

私は世界から棘のついた捻れた五寸釘のような痛みを打ち込まれる度に、レツの胸に左耳を寄せて、いつまでも雪の温度と湿気を私の中に満たすのだった。

 

冷たいものは何よりもあたたかく、澄んだ雪解け水のようなとろりとした透明が私を世界から守ってくれる膜になった。

 

 

 

 

 

レツと過ごした最期の方は、施設に引き取られる日が刻々と迫って来ることに心が砕け散る思いで溢れていた。あの頃の私は本当に病気が特に重く、パニックに陥るたび、どんな場所でも自傷行為を見境なく様々な方法でしてしまった。ある日は朝の墨田区を走る電車に座り込んで、カッターの替え刃を直接握って振り下ろし続けることでしか感情が私から零れ落ちるのを防げなかった。文字通りいつも死が真近にある日々だった。レツは血にまみれた私の手を、真っ白な雪に朱が染みこむように握りしめて両の手で包み込んでくれた。

 

 

やっと家まで辿り着いて、レツは私の手を取ったまま白と黄色の混じった光で照らされたベランダに連れて行った。そのまま二人で後にも先にもなく、言葉を交わさずに何時間も太陽が最後まで落ちて消えて無くなる様をじっと見入っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愛してる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と、彼はふいに口にした。

真っ直ぐに私の両の目を見つめ、真剣さと慈愛の籠もった言葉で何度もゆっくり音にしてくれた。私の生命が最初に震えた音だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は気がつくと都立M沢病院の隔離に入っていた。

 

 

目が覚めると、天井の偽物の木目がわざとらしくこちらを舐め回すように嘲笑って見ていたような気がした。

 

 

首を左右に傾けて確認すると、私は紺色のシーツすらない薄いマットレスの上に仰向けに寝かされていた事が分かった。左には銀色で蓋をされた使えないコンセントと扉のない和式便所が見えた。

 

 

 

警察なら黄色のごわつく毛布をかけるはずだ。ここは外は見えないように窓に細工が施されているとはいえ電気でなく日光がきちんと差し込む。こんなに清潔感のある房なんて存在しない。なにより、部屋全体に漂うきつい消毒の匂いが病院の中であると告げていた。

 

 

 

青く変色した手がピクッと動いたので身体に力を分配して染み込ませていくと、私の身体が私の操作を受け付けてくれるスイッチが入れられたのを感じた。右手を顔の前に運ぶと、手首にはバーコードの記されたバンドが付いていた。

 

 

 

 

 

 

また、ここか_______________

 

 

 

 

 

 

 

この病院は知らないが、こういう景色は何度も見てきた。また世界から何もかも分断された日々が始まる。マットレスとトイレだけの正方形の毎日が。

 

 

 

内側からはドアノブどころか小さな突起もついていない鉄の扉があった。少し触れると、顔も知らない誰かの泣き声がまざまざと感じられる気さえした。

 

 

 

 

私が意識を取り戻した様子をカメラで確認したのだろう、医師たちが何時間かすると部屋にぞろぞろと入ってきた。

少し白髪の混じった背の小さな60代くらいの女医が一番前に出て、三角【みすみ】と書かれた名札を私に少し屈んで見せた。

 

 

初めまして、と私がいうと困ったように眉根を寄せて「あなたとは初めましてではないのよ」となんとも言えない温度で告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そう、覚えている。

 

 

 

別々のパトカーに乗せられた後、回転灯が吐き気がするくらい不吉な気持ちの悪い赤色で光るのに邪魔をされて、私はレツの顔すら見る事ができなかった。

 

 

 

新宿御苑のビジネスホテルの浴室に、警察が何人も雪崩れ込んで、レツは私が選んであげた黒地に金のフラクタル模様のシャツを着ていて、私はその腕に包まれていて、、

 

 

 

 

 

 

 

私たちを引きはがす警察に、「その子は警察にセカンドレイプに遭っていて酷いトラウマがあるので痛めつけないでください!!!!」と何人もの警察と揉みくちゃになりながら、今迄に一度も聞いた事のない怒鳴り声をレツがあげていた。

 

 

 

 

 

私はいかに自分だけが罪を被るかを自分のでき得る限りの最速で考えようとして、

パトカーに裸足のまま引きずられて乗せられてドアを閉められて、

助手席の推定年齢22〜26歳くらいのヘルメットを被ってバインダーとボールペンを持ちながら振り返った男性警察官に.出身はどこなの?と言われて、

横浜です。と答えて、あ、そうなんだ。俺も横浜なんだよ、横浜の何区?と訊かれて東西南北くらいならありそうだと思って南区だと伝えて、

 

 

 

 

 

、、そこから?

 

 

 

そこからどうした?レツは?レツはどうなった?レツは無事なのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レツが開けてくれたピアスをMRI検査の時に全て外され、危険物としてナースステーションで預かられ、それをもう一度受け取って退院する頃には左右で20程空いていた穴は塞がりかけていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地元から音信不通だった義理の兄が車を出して母親と一緒に迎えに来て、面会室で着替えやタオルや洗面用具を持たされて、あり得ないくらい久しぶりに外の世界に出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もうそこには何も無かった。

 

 

 

 

ずっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【記録】元カレ11人魔界転生【デザイナー/俳優/ホスト/エンジニア/依存症施設職員

あー君彼氏居ないの?ダメダメ、売れる子は常に彼氏いるから、と先日勤め先の社長の阿保面の男に曰われた。

さて、私の恋愛遍歴を振り返ろう。今は交際相手は居ないが虹彩が無いとは言わせないぞ、という堅い意志とともに。

 

 

 

 

 

まず私は酷い恋愛体質に冒されていた。2024年2月まで。

テンプレに抗って最新から振り返ろう。

 

 

 

Uくん(当時29歳)

職業:デザイナー

 

U君は去年(2023年)に私が東京で絶賛⭐︎ホームレス生活をしていた時に宿探しに入れていたマッチングアプリで知り合った。

 

Instagramの投稿がとても「良い」とずっと思っていた。彼の家に居候しようとしたがタイミングが合わず、U君も引っ越しがあったりで連絡先を交換してから半年以上後にようやく会えた。

 

彼のおかげで滑り込みクリスマス独り身回避を行うことが出来た。

一緒にセブンに駆け込んでケーキを買って楽しかったね。年賀状を代筆して彼の仕事先に書いた。一言くらいは自分で書いたら、と言ったら会社と社会を書き間違えて壮大な抱負を書いていた。

 

 

元旦から壮大な巻き込み事故を起こしてしまい、私は本当に久々に誰かを自分の瑕疵で損ねてしまったと思った。

 

 

 

今も連絡は偶にとっている。そういえば元彼で今も話す人は多いな。

 

 

 

T君(当時26歳) 

職業:俳優兼照明

 

私の勤めるお店にお客さんとして来てくれたのが出会いである。私が席に着いた時に、演劇の話で盛り上がった。私は小学生の時に「二十四の瞳」の小豆島の昔の歌舞伎座でマスノ役をやっていたり、ガラスの仮面を読んで俳優を目指した事があったり実はそういう過去がある。

 

私は日本中に荷物を両面宿儺みたいに分散させている(元彼Kによく揶揄られる)のだが、その回収に仕事のデカいハイエースを飛ばして県を跨いで手伝ってくれた。

 

偶然会おうとした時に板橋区の隣の町に居たのが面白かったね。

京都に発つ前日に歌舞伎町に宿をとってくれて、米津玄師の感電を二人ででかい声で歌いながらドンキで煙草を何種類も買った後歩いたね。

 

京都に私が行ったのに困ってる事があるとすぐ助けてくれた。SOSの5分後に口座に必要以上に振り込まれていたり、歌舞伎町のレンタル倉庫をクレカのない私の代わりに毎月高いお金を肩代わりしてくれた。ホームレスしながらそれを完全に封印してキャバ嬢をやるのにどれ程救われたか分からない。

 

去年の10月頃、私が過去と違って病んで自殺未遂ではなくフィジカルで死にかけていた時、あろうことか収監されそうになったので助けを求めた時も、

 

「東京に戻ってマンスリーマンションでも借りて一緒に暮らそう。だから死ぬな」

 

と言ってくれて何処までも善い人だなと思った。

 

でも私が一番印象深いのは背後が怖くて書けないけど私が◯◯◯の話を出した時に、あの返しをしてきた時は痺れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

H君(当時25歳)

職業:ホスト

 

正直この人を加えると多方面から馬鹿にされたり見下されたりしそうだが、(例:ホストの彼女なんてただの育てだよ!)まあ少し聞いて欲しい。

 

ホームレスの話どんだけ擦るんだよと思われそうだが、真夏のホームレスは本当に辛くて、なにせ仕事場に隠すのが大変だった。

それに現住所が無いと二進も三進も行かない。

その為、彼の家が3LDKだった事もあり夜職2人で生活リズムも同じなのでシェアハウスをしていた。

池袋駅でデートしていた時に、駅の構内で握手をしながら交際を開始したのが始まりだ。

 

凛がのちに私とH君の家にやってきて、H君が留守の間に注射器を見つけて警察を呼ぶと言い出したので、誰がクスリをやっていようが家が無くなる方が困る私は凛と大喧嘩をした。

 

結局、通報を私自身がして(凛に受話器を持たせるのが怖過ぎた)警察が深夜家にやってきたが僕たちも忙しいんで現行犯でも無いし〜みたいななあなあになって終わった。職務の怠慢に救われるとは、複雑。

 

別れた理由は、H君とは別にY君という(H君の勤め先の系列の本店のホスト)と歌舞伎町で同棲をしていたのだが、

 

Y君は週に半分程の帰宅だった事や、全く男女の関係にならない間柄だった事、私がH君との関係を切ろうとしてた事などの理由で私が断りなく合鍵を両方持っていた事案がバレてバースデーイベント後で悪酔いしていたY君とH君が殴り合いになり、

 

私も殴られ絵に描いたような修羅場を迎えたので終わりにした。

 

 

 

 

 

A君(当時22歳)

職業:プログラマー

 

A君は途中から転学した通信制高校の先輩に当たる。我々は界隈が被りそうで被らなかったのでお互いの存在は認知していなかった。

しかし、元彼のK君がA君と親友だった為、みんなで共通のメンタルクリニックの近くで待ち合わせをして会った。

 

A君は超絶ADHDで、超絶ADHDの私と同棲するまでかなり最高の関係だったが、知り合って2年後に同棲した瞬間に全てが崩壊した。A君はなかなか説明がハイコンテクストな性格をしており、正直言って書くのが面倒くさい。

 

いつかもう一戦交えようとK君を介して確認が取れたが、彼は「さらたん」を恐れている。

 

まあでも、6月9日に前祝いとして急に家凸したのに中野駅の夜まで開いている店でホールケーキを即座に予約して、高田馬場から歩いてスーパーを梯子して白ワインを調達し、手作りの魚介のトマトクリームパスタを振る舞ってくれたのは物凄く感謝してるよ。

 

 

 

 

 

I君(当時33歳)

職業:依存症回復施設当事者職員

 

 

うーーん。人生で最長のお付き合いだったけど余りにも特殊だったんだよな。I君と私は施設の存続モク政略結婚の為の手札同士だったんだよね。

 

 

疲れたので一旦区切る。車にも酔った。

これにて元カレ魔界転生〜上〜とする。

【日記】猟奇的誕生日の罠(22回目)を終え

森で10人以上で鬼ごっこ等で遊び、

夜に屋上で語らい、バーで乾杯して熱い思想に痺れ、

旧い木造建築の中でセブンのケーキを食べ、蚊取り線香を面で燃やし、

キュビズム展のポストカードを貰い、作者の生存年数の暗算ができずに4つ下の男子学生にプレゼンを欠席させかけ、

ハチミツとクローバーを読み返して悦に浸り、

 

 

そして今キーボードをたたいている。

 

 

 

 

  

誕生日コンプレックスがかなり重症なのが私の特徴だ。

 

誕生日=人気調査チェックの総決算って感じがしないか?私はものすごく強く意識してしまって毎年楽しみよりも恐怖が前に立ってしまう・・・。

 

(机の上に積み重なったお菓子や購買のパンの高さが人気度合いの具象化だった高校生時代は法則性すら見出せてしまって特に打ち震えていた。)

 

 

 

 

 

 

 

21歳最後の一日だね、と前日に届いたLINEから緊張感はMAXだった。

 

6月12日はサークルクラッシュ同好会の例会があったので、いつもの顔触れに加えてほかにも京都の学生たちと過ごせる日だった。

 

でも肝心の13日はどうしよう・・・と思っていたら京都大学吉田寮でゲリラ食堂があるからおいで、と誘いがかかったのでほっとしたのだった。

 

 

 

私は一人暮らしをしているが、誕生日は家で引きこもる&昼夜逆転で目が覚めたら日没後ルートが全然あり得そうな範囲で予測できていたので、京大周辺で今週は予定が詰まっていたこともありサークラの代表のホリィ・センのシェアハウスに泊まって翌日吉田に行こうと石火のごとく考えた。

 

 

 

21歳最後の昼下りに、誕生日ブルーの暗雲を一掃する勢いで化粧がすごくいい感じに仕上がったので

その時点で「今年は何か違うかもしれない」という具合にかなり胸が高鳴った。

 

 

いつもは使わない高価なアイシャドウパレットのピンクを基調にグラデーションを付けて星屑のようなラメを瞼に冠する。リップは二本使って重ね塗りをした。

 

最期に化粧が最高に上手くいったのは3月の末だった、と記憶しているので誕生日付近にメンタルヘルスのご加護を取り戻せてよかった。

 

 

 

12日午後2時。出がけにチャリ鍵を紛失したことに気づき、急遽バスに乗ってまず最初の用事に取り掛かる。

 

2か月バックれた精神科も、第一線から退いた院長が優しいおじいちゃんそのままの口調で「今日は○○先生(院長の息子さんが私の主治医なのだ)の予約とって帰りなさいね」と言ってくれて事なきを得た。

 

 

 

心理検査の結果を持ち帰るだけで薬の受け取りもなかったので、そのまま学食に移動してその日最初のごはんを食べて、18時半からのインプロ(即興劇形式のコミュニケーションゲーム)を楽しみにしながら生物の勉強をした。

 

 

 

 

出町柳改札前でサークラの面々と合流し、結局は日が完全に落ちた後まで“傍から見るとかなり奇異なゲーム”を総勢15人程度で行いながら時間を過ごした。

 

 

ちなみにインプロは普通の鬼ごっこジェスチャー人狼、伝言ゲーム的な文脈に突飛な文脈が加わることで成人越えの我々でもかなり本気で楽しめるものだった。

 

(文節ごとに架空「星の王子様」をバトンを繋いで頓智気な宇宙戦争に発展したときは原作主義っぽい私でも声に出して笑ってしまった。)

 

 

 

 

だいたい活動が終わるとみんなで車座になって夕食を食べながら語るのだが、その日も例にもれずそれは行われて、屋外だったこともあり夜の薫風が心地よかった。

 

(次回の例会は「りりちゃんの頂きnote全文の読書会」をする私の要望も通ったし!)

 

 

 

 

 

その後銘銘が主にチャリに跨って散っていく中、

サークラで初めて喋った院生の二人と近くのこれまたハイコンテクストなバーに行く流れになり、私の頭の中で「13日になる瞬間に家で孤独ルート」がほぼ完璧に回避できたことを確信し密やかにガッツポーズをしたい気持ちになっていた。

 

 

 

院生生活や専攻の話で花が咲く中、突如私が勝手に菩薩と称する知人がハレー彗星のごとくバーに入ってきて私はかなりマジで嬉しかった。

 

 

彼は既に歩くハッピー・ピープルとでもいうべき「出来上がり具合」だったし、偶然彼の苗字と同じ九州の日本酒が置いてあったこともあり、彼の「すごい調子いい」感じはその場に浸透し、貰い鬱ならぬ貰い悦を得て私たちは彼の引導のもと、日付が変わった瞬間に盃を交わした。

 

 

 

『ポル・ポトは実は右派なんだよなあ』が個人的にしっくり来たMVP発言で(改革と保守は両立するいい実例)、宝石の国完結に伴う人類学への私と彼の思いの派生も確認できたし押見修三の「おかえり、アリス」最終巻のあとがきの「男を降りよう」と藻搔く慧ちゃんの話もできた。

 

(しかし、なんといっても、ずっと社会の最底辺弱者層に位置してきた私と、彼の描く理想のセーフティーネットの構造の話が有益だったと言えるだろう。)

 

 

 

 

 

 

その日は午前三時半ごろに帰宅したホリィ・センより早くシェアハウスに行き、「一人」でも「独り」でもない状況で安眠することが出来た。

 

 

 

仕事に出かける堀内(ホリィ・セン)を何となく感じながら、

“計画的に感染させられた梅毒で国立の研究センターに収監され、実質人権の存在しない生活から自分のすべてを尽くして大脱走する夢”

を同時に見ていた私は結局、昼過ぎに目を覚ました。

 

 

(それぞれ異なるNPO法人3つから3回逃げ出した私の人生の抜本みたいな夢だった)

 

 

 

吉田寮に向かって歩きながら、日の傾き始めた京都の街並みを見て

 

 

「東京至上主義でずっと突っ走ってきた私が22歳の誕生日を京都で人生初の一人暮らしを大混乱の中、命がけで入手して迎えることになるなんて思いもしてなかったな」

 

と思った。

 

(ちなみに去年は非言語的コミュニケーションの食い違いで事故的に元彼と同棲していた高田馬場のアパートに入れなくなり、錦糸町の友達の隠れ蓑のホテルに泣きながら終電で駆け込んで、百均のティアラを付けてニコ厨メドレーを二人で踊った。)

 

 

 

 

寮でグリーンカレーを食べて、サークルのプレゼン例会を蹴って一緒にセブンに行ってくれた後輩は、ケーキの上に仏壇用の蝋燭を付けるか花火を付けるかで逡巡していたので私は(最近の花火ってこんなに高いんだ)と思いながらお目当てだったケーキだけを買ってもらった。

 

 

 

蚊取り線香を窓際から持ってくると、私にライターを借りて彼は両方から火を点けて実質には面でそれを燃やし始めた。

 

真っ白なクリームのケーキを食べながら、昔の日本では皆が一斉に年を重ねていたから誕生日を祝うのは輸入された文化なんだよ、という話をした後にキュビズム展で一番お気に入りだったという絵画のポストカードを贈ってくれた。

 

 

 

フランティシェク・クプカという画家の名前と生没年が後ろに載っていたので、暗算がとにかくできない私が彼に計算してくれ、と頼むと質問が質問で返ってきたのだが、私はジョジョ構文で逆ギレすることはせず、難問に悶々と悩んだ。

 

 

 

 

 

 

そうして誕生日が終わった。母親が送ってくれた段ボールは21:00にぎりぎり間に合わず14日に再配達されるらしい。

 

 

 

こうして2024年の試練をなんとかやり過ごせた。怖かった。とても。

 

 

 

一番良かったのは、現在の父親のお見舞いに母がものすごく久々に赴いた報告が聞けたことだった。

父は10分間しか面会が許されていないので、私がホームレス時代に体を売って心を不可逆的に圧殺して交通費を工面して這うように医大に辿り着いた時も

タイマーが渡されたのだった。

 

 

 

 

誕生日は親がメインの記念日だと思う。

母親とは国交回復に努めているのでいいけれど、

他界した父親には直接何かを言ったり言われたりはできないのでせめて三人目のいまの父親にはなるべく沢山会いに行こう、と思った。

 

 

 

 

無事22歳にさせてくれたこの世界に少しと母親と父親には多くの感謝を込めて。

 

 

【私小説】顔と骨のない、私を愛してくれた父に

私が、父親の眠る場所を喪失したことを知ったのは

世界一汚い世界で生きていた時だった。

 

 

 

私の生まれた2002年6月13日の約2ヶ月後、父親(以下、ゆうじパパ)が彼の実家で不審死という形で故人となった。

 

 

 

私の記憶は1歳~しか思い出せないため、ゆうじパパのことは顔も声も背丈も覚えていない。数回だけ、公園の切り株で胡坐をかいて缶ビールを持ち、静謐な笑みをカメラに向けたときにシャッターを切られた写真を見たことだけがある。

 

 

(その写真も今は所在が分からなくなってしまったのだが。)

 

 

写真としての記憶の中の彼は、背はあまり高くなく、髪はやや長めで、少年と青年のどちらにも傾かない、その座標にとどまる人はあまりいない奇麗な顔をしていた。

 

 

彼は東京でバーテンダーをしており、写真学校の学生で、当時英語の情報商材を生活苦で売っていた母親にビッグサイトで高額なCDを買わないかと声を掛けられ、二人は出会った。

 

 

(ちなみに、母親の卒業制作の写真はアパートメントから撮った青空だった。卒業前に写真に対しての熱情が滑落した結果、それに「青」とだけ題を冠して提出したそうだ。)

 

 

彼と彼女が、絶対に代替など到底できないほど惹かれあって過ごした最高の数年間を私は何度も頭の中で色を付ける。

 

ゆうじパパは私が生まれるのを心待ちにしていたらしい。娘であることが分かってからは、何歳の時にはどんなふうに髪の毛を編み込んであげるか、まで考えていたらしい。俺よりかっこいい男以外には指一本たりとも触れさせまい、と本気で凄んでいたそうだ。私は今でもずっと、ゆうじパパの思惑に絡めとられてか、彼より「かっこいい」と思った男性も女性もいない。

 

(私の意識がそこに帰着するようになっているのだろう。そこには希望や期待が一方向にのみ流れる世界があり、固定された感情の流出だけがある。これは防衛機制の一種であると推察することもできる。)

 

 

 

 

 

 

 

いつにも増して、最低な年だった。

茨城の施設に私が入寮していた期間にそれは発覚した。

 

 

施設については追って記述する機会を絶対に持ちたい、あまりに文脈が多層であるからだ。

 

私はそこに最年少の19歳で入寮し、平均年齢48歳前後の女性たちと寝食を共にし、約2年後に施設の運営する精神科の二階の女子トイレから脱走するまでそこにいた。

 

 

衣食住の強すぎる圧迫、そして思想、信仰の強制、外出禁止、携帯以外に新聞も禁止される明らかな思想の自由の奪取があり、身体への加害としては首を絞める、顔を殴る、吐いても決められたグラムを食べ終わるまで部屋に帰さない等、精神損害としては、「死ね」というあまりに現代社会で最も低俗な存在否定の暴言、家族との面会を脅迫材料として使用する等、女性施設長自らが入寮者たちの残りの余生すべてを破壊し、すべてをひずませ、筆舌に尽くしがたい「痛み」をずっと味わわせるループ装置のようになっていた。

 

 

 

 

 

 

母親と弟、祖母との面会をようやく許されたのは、入寮してから一年後のことだった。

 

弟に駆け寄って抱き着いた瞬間に涙が大量に流れたのを覚えている。弟も思春期なうえ数百人の目の前なのに、面会時間の終りまで手を繋いでくれたし、彼も泣いていた。

 

私が家で寝たきりになりながら見ていた最後の弟の姿からは20㎝以上背が伸びて声が低くなった状態で再会したので、奪われた時間の重さと、もう大きくなっていく途中の彼には一生出会えないことが無性に悲しかった。再会できたことが嬉しくて泣いたというより、私はひたすら狂おしいほどかなしくて、そして侘しかった。

 

 

 

 

 

 

母親と弟はひっそりと岩手の山奥に眠るゆうじパパのお墓に、私が施設の中で20歳になった時に成人を迎えたことを報告をするために訪れたらしい。

 

父親のお墓の隣には、飼っていた動物を模した犬の置物があるため、ゆうじパパの苗字とお墓の特徴を聞いた弟は、母が追い付くより先に敷地内の墓石を見て回って、ずっと不可解な顔をしていたらしい。

 

 

 

ないよ?どこにも無い。

 

母はそれを当然理解できず、彼女が把握していた墓地のその場所に移動したとき、本当にゆうじパパのお墓はなかった。

 

 

 

 

住職に尋ねたが、何年も前に父方の家の意向で墓仕舞いをして関東に移されたのだという。勿論、なにひとつ母への伝達はなかった。

 

 

 

私は、父親が焼かれて埋められた時と、6歳の時に母親が再婚した三人目の夫と大喧嘩して私を連れて飛び出した時の二回だけ、たった二回だけその場所に行ったことになる。

 

 

 

 

 

私はゆうじパパを喪失した、とは言っていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父親の眠る場所を喪失した、と言っているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

母は私の手、指のかたち、長さ、爪に至るまでを眺めて、「これはゆうじパパの手だね」言うことが適さかある。

私には当然分からないが、ゆうじパパと私は瓜二つな言動をすることがよくあるそうだ。ある日即興でピアノを聴いていると、「ゆうじパパも本当にこんな曲調のジャズを弾いていたよ...」と言われた。

母親が私にとって嬉しい言葉をかけてくれた時に、「全部聴いてたけどもう3回言って」と返すと、母親は吃驚した顔をした。ゆうじパパが公園のブランコで母親にプロポーズした時、母の返事が嬉しくて同じセリフを言ったらしい。

ときどき精神がコントロールできなくなってきて、破滅的な創作をする度に母親はゆうじの血なのかな...と静かに呟く。

私が線路に飛び込んだときも、首を吊ったときも、クスリに溺れたときも、母はゆうじパパと私がそっくり重なってしまうらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父親はずっと遠いところで生命の分水嶺を越えた。あと数年経てば、私の年は彼の年を追い越していくんだろう。